石ころ

いけにえ(レビ記14章)

 

 主はモーセにこう告げられた。
「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。彼が祭司のところに連れて来られたら、
祭司は宿営の外に出て行く。祭司が調べて、もしツァラアトに冒された者の、その患部が治っているなら、
祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。(1~4)

 

ツァラアトが治ったことできよいわけではなく、伝染する皮膚病が問題なのではなく、みことばに完全に聞き従うことによって、きよくなることが14章の中心であった。
確かに、不信仰は伝染する病のように人の命を持ち去って、みことばに逆らうあらゆる理屈が、もっともらしく蔓延っているのを今は見ている。

 

祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。
そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。
それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。(4~7)

 

ツァラアトの癒やしやきよめには、金持ちでも貧しくても代償のささげものとして、ほふられるための雄の子羊が必要であった。

 

罪からの命の癒やしも、きよめの証を立てることにも、聖なる神の御前に、あがないのための犠牲が必要なのである。
命には命が支払われ、癒やしには癒しのための代償が支払われ、証には証を立てるための保証が必要である。

 

ほふられる子羊と、その血によってきよめられ癒やしを宣言される病人。二羽の小鳥の一羽はほふられ、一羽はその血に洗われて野に放たれることには、キリストによる十字架のあがないと、罪から解放された者の赦しが現われていている。

 

 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13~14)

 

イエス・キリストの完全なあがないによって、癒しときよめを宣言された身の幸いは、霊による賛美のいけにえを、声の出なくなる日まで捧げさせ、御名を喜ぶ感謝に溢れて、御前にひれ伏す者とする。罪から解き放たれた自由の中で・・。

 

キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。(へブル10:12~14)

 

きよめと癒やしを宣言された祭司は、自分が何ものであるかを絶えず繰り返しみことに確認して、今日を主に従順する者である。

 

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(Ⅰペテロ2:5)


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