石ころ

平和があるように(ルカ24章)




 ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。(ルカ23:55)

逃げた弟子たちと違ったのは、彼女たちがよりイエスさまを愛していたからである。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:18)

主は天使を送って、マリヤたちにみことばを思い出させてくださった。
しかしそのことを聞いても、弟子たちは「たわごと」と思って耳を貸すことはなかった。これが女ではなく、権威ある者であったらすぐに信じたであろうに。
ただ、聞いたペテロは走ったとある。彼が主に渇いていたからである。


 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(ヨハネ4:39)
サマリヤに起こった救いは、夫を5人も取っ替えた女の言葉を信じてイエスさまに来たことにある。
彼らが女の言葉に素直に応答したのは、キリストへの渇きがあったからである。渇いている者は、主の準備してくださったチャンスを掴むことが出来る。
無視してしまうのは、霊において鈍感で渇きがないからである。あるいは恐れが心を占めているからである。


 エマオの途上で論じ合っていたクレオパたち。今までの議論はろくでもない内容が多かったが、此処ではイエスさまが来てくださる内容であった。
みことばを論じ合うことは素晴らしい。そこに必ず主が来てくださるからである。その時、間違いを教えて聖書のことばを解き明かしてくださるから。

それは、
「物わかりが悪く、心が鈍く預言者の言ったすべての言葉を信じられない者たち」(ルカ24:25新共同訳)に対してである。
だから、誰であっても真実なみことばを語っているなら、勘違いがあってもそれを放っては置かれることはない。間違いとわかったら正せばよいことである。


 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)
かってはこのように言われた主が、十字架ですべてを完了された今、

「あなた方に平和があるように」(ルカ24:36 新共同訳)と言われた。
私たちは、すべてを完了してくださった方に拠って成る、平和を賜っているのである。剣を通っても平和に至る者である。だから何も恐れることはない。

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