イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。
この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカ17:1~2)
つまずきの初めはカインの罪彼は自己中心であった。だから神様の裁きに憤って、八つ当たりをしてアベルを殺してしまったのだ。
アベルが直接彼を怒らせたわけではない。恨みはなくても神様の裁きが気に入らない時、人は神のお気に入りを殺そうとする。
神様の裁きがつまずきを与えるのか・・、いや、人は裁きに服従するべきであると躾けておられるのである。それが人の唯一の聖さだから・・。
主の裁きに憤り、その汚れた思いを拡散して人をつまずかせる者がいる。そのことは忌まわしくそのような者には死を与えたほうがましだと言われている。
気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(ルカ17:3~4)
主に赦された者は感謝のゆえに赦すことができる。赦しを経験することは弟子にとって重要であって、初めに主が七の七十倍赦してくださったのだ。
そのことがわかるのは正直だからであり、誤魔す者には主の赦しは認識できない。人を赦すことは主に対する服従である。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:9~10)
主人はしもべをもてなす立場にはない。神様は私たちの主である。
何処から救われたのか十字架を日々覚えておれば、いかなる裁きにもすんなりと従うことができるものなのだ。そうして、笑顔で「なすべきことをしただけです。」と言うだろう。
ある村にはいると、十人の病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:12~16)
十人癒されても感謝をもって戻ってきたのは、孤立していた異邦人の一人だけであった。
人が互いに頼り合う関係で、ひとりで信仰の深みに入って行くことは難しい。大勢の顔色を見ていては不信仰に流れて行く。
真理はひとりで選ぶものであり、ひとりで主に返るべきである。
共に集まって、主を賛美することは楽しく主のお喜びである。けれども、信仰の歩みは後ろを振り返らずにゴールめざして駆け抜けなければならない。時間が何時までもあるわけではない。その真実な信仰に多くのいのちが掛かってもいる。
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)
イエスさまは、彼がしっかり信仰に立つことができるようにとみことばをもって祝福してくださった。
何度癒されても人は一度死ぬ者である。「霊、魂、体」の祝福を受けなければ意味はない。人は神の栄光を現すために造られたのだから。
彼はイエスさまの足元にひれ伏した。人にとっては、主の御前にひれ伏す以上に美しい姿はないと思う。
それは御子の十字架によって救われた者のあるべき姿だから・・。
御国で新しい霊の体を着せられて、主の御前にひれ伏すことを夢見ている。低く低く溶けてゆくほどにひれ伏すことを思い描いている。
その日はなんと素晴らしいだろう・・。
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ムベ
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