石ころ

主の癒し(ヨハネ9章)




 久しぶりの晴天で洗濯物がすっかり乾いて嬉しい。梅雨の湿気を追い出そうと、家中を開けっ放し押し入れまで風を通した。
少し涼しくなって来て遠くでヒグラシゼミが鳴いている。宵闇迫るこの時はちょっと淋しいけれど嫌いじゃない・・。
たった一輪挿したクチナシが甘く部屋に満ちている・・。


 生まれつきの盲人はイエスさまに癒されたのが安息日であったことから、宗教者に執拗な尋問を受ける事になる。
彼らは主のわざを否定させようとした。

まず、「その人(盲人)ではない。」という言葉に対しては、
「私がその人です。」

わざの否定に対しては
「私はいま見えるのです。」

「それは神のわざではない。安息日を破ったイエスは罪人である。」に対しては、
「あの方は預言者です。」
「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」


彼の答えはいつも単純明快で、臆することなく事実を語っている。はっきりと語れるのは主のわざを体験したからである。

わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)

 彼は真実を語ってコミュニティーから追放された。その時イエスさまが来てくださって、信仰を告白し礼拝するチャンスを得た。
主のわざを経験した者はその事実を語るしかないのだ。黙ってしまうことは罪を犯すことだから・・。臆せず主を語るにはわざを経験したことや、赦されたことの確信が必要なのである。
病人で、罪人であったことはなんと感謝なことだろう。キリストに触れられたのだから。


 「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」(ルカ9:11)

彼はイエスさまに触れられてみことばを頂いた時、信じてシロアムの池に向かって歩いて行った。まだ目が見えないままで歩いて行ったのだ。
「みことばを信じて行動すること」此処に癒しを受けるコツがあると教えられた。

「あなたの信仰があなたを直した」(マタイ9:22)
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」(マタイ15:28)
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(マルコ10:52)


癒しは主と私たちの共同作業なのだ。主が癒しを備えてくださって、私たちが信じて受け取る。主に触れられてからシロアムまでの時間も感謝と喜びの時間である。みことばから癒しまでの間は信仰を証するチャンス。

願い事も祈ったことは委ねて待つ。忘れてしまうこともあるけれど、それは委ねきった結果でもある。
祈りには横やりが入るもので、主のわざを否定させようとする力も働く。しっかり立ってシロアムに向かって行かなければ・・と励まされた。

しかしこのことは、主が彼を不憫に思ってくださったことから始まっている。そうして彼は恵みをしっかり受け取り、神のわざが成就されたのだ。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)


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