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石ころ

ラザロのいやし (火曜日の交わりのために)



イエスさまはラザロが病んでいることを聞かれた時、すぐには行かれませんでした。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(ヨハネ11:4)

それは、神の栄光が現れるためでした。私たちがイエスさまの憐れみを受けて祈りが聞かれるのは、すべて神の栄光が現れるためです。
決して、私たちの信仰の見返りとして与えられるのではありません。私たちは何ひとつ祈りが聞かれるに相応しいものなどないからです。このことを私たちがわきまえていることはとても大切です。

「マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」(ヨハネ11:21)
マルタはイエスさまに、なぜすぐに来てくれなかったのかと恨み言を言います。マルタにはまだ大切なことがわかっていなかったのです。

イエスさまは彼女にご自分の神であることを説いて聞かせて下さいますが、マルタにはよく分からずに食い違っていますが、
「彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」(ヨハネ11:27)
イエスさまは、忍耐強くわきまえのない者の信仰を導いて下さいます。彼女をこの正しい告白に導いて下さいました。

でも、すぐには彼女はイエスさまの真のことばの意味がわからなかったのですが、後でラザロが死からよみがえったときに、おことばの意味がはっきりとわかったでしょう。
みことばはすぐにわからないときが多いのですが、イエスさまは必ず教えて下さいますから聞き続けていきましょう。

 マリヤは、いつもイエスさまの前に座ってみことばを聞いて居ましたから、イエスさまが来られたときも、話すべき言葉に思いを巡らせていたのだと思います。でも、信仰を取り繕うような言葉は話せずただひれ伏したのでしょう。

主がご存じでの中で起こったラザロの死を受け入れてから、自分の思いをそのままイエスさまに話しました。同じ言葉を話しても、マルタとマリヤの言葉はとても違うと思います。

私たちは祈った後、その願いが聞かれても聞かれなくても、イエスさまの御前にひれ伏すのです。どのようなことがあっても神の裁きは義であり正しいからです。私たちはもともと、裁かれて死ぬべき罪人であることをわきまえているべきです。

イエスさまはラザロの死に対してに涙を流されました。イエスさまは豊かな感情を持っておられ憐れみ深いお方です。

  
 亡くなられた方が3万人とも言われる今回の震災に対しても、イエスさまは涙してくださったと思います。
天災には神様の御手が働いていることは事実です。神様の許し無しには良いことも悪い事も起こらないからです。

人は平和の中ででも120年も経たずに死んで行く者です。天寿を全うしたと言いますが、それは永遠からすればとてもわずかな期間であり、その後、不信仰によって永遠に裁かれ続けるのです。

イエスさまが涙を持って今を裁かれているのは、そのような滅びから人々を救い出したい、それは私たちへの警告なのだと思います。
今、光のある内に、今この命のあるうちに、無条件に差し出されている救い、イエス・キリストのことばに耳を傾ける者は救われるのです。それは永遠の裁きからの救いです。

ラザロは、墓から四日目によみがえらされて神の栄光を現しました。
私たちが救い主イエスさまに身を寄せるとき、御子は栄光をお受けになります。イエスさまが救われたいのちだからです。その時初めて、私たちのいのちは大きな価値を持つのです。

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