石ころ

聖餐式(マルコ14章)




それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。(マルコ14:22~24)


イエスさまが完成してくださった十字架の御救いを、知識としてだけでなく定期的に行う事で、救いを体で覚えるためのものである。人は繰り返し確認していないと、すでに成就してくださった救いから彷徨い出て、あやふやな生き方をしてしまうからである。

みことばによって、十字架で御子が成してくださった無条件の救いを覚える時は、大きな喜びと感謝に溢れたものであるはずが、残念ながら無味乾燥な儀式となっている。
「洗礼を受けたら、ご一緒にできますよ」というが、イエスさまへの渇きを起こさせるものを見出すことはできない。

 イエスさまは、みなで食事をしている途中で行われたとある。寛いだ食卓の親しい交わりの中で行われたことなのだ。このほうがずっと魅力的だ。
もし今もそのようなら、イエスさまがどんなことをしてくださったかを互いに話し合い、どんなにすばらしい御国での出会いが待っているかと、ワイワイと話しながらの聖餐式なら、どんなにかイエスさまの臨在を感じることができるだろう・・。
見た人は「私もあのように話したい」と思うだろう。

そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:50~51)

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