次男には旧約聖書ばかり読んでいた頃があった。そして、この箇所「ウザ」によって躓いていた。
「なぜ?神様はこんなに理不尽なのだ。神の箱を彼は守ろうとしただけなのに、なぜ神に殺されなければならないのか・・」
しかし、今日この箇所を私は通読していて気づかされた。
ウザになってはいけない。罪に汚れた者の判断で神様を守ろうなどとしてはいけない。不信仰によって神様を守ろうとすることはあまりにも愚かなこと。
人に対する神様のご計画に対して私たちは割り込み、神様を守ろうと人の判断で手を出すことがあるけれど、それは本当に恐ろしいことだと思った。そこには不信仰があり、ただ、信仰を持って待つことができないだけであることが多いから。
ダビデが神様の宮を建てることを願ったとき、逆に神様が彼の家を永遠に建てると約束されたように、私たちが神様に何かできることはあり得ず、どんなときにも私たちが神様によってすべて与えられ助けられる者にすぎない。
私たちにできることとは「もし、神の赦しと助けが在れば何かをすることができる。」それだけだと思う。
礼拝も、日々の祈りもみことばの時もすべては主の赦しの中で、助けの中であるのだと思う。元々、人はすべてただちに主に打たれて死ぬべき罪の者に過ぎないのだから。
「こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。」Ⅱサムエル6:6.7
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