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石ころ

愛する方へ (手紙)

「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。」(1コリント4:9)

私はこの身に起こるすべてを書き連ねて主を賛美しています。
それは、すべては私だけの祝福ではなく、主には伝えたい人々があることを知っているからです。今、私たちが受ける恵みはすべて誰かのために受けているのだということを知っています。

「イエスは答えて言われた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」(ルカ19:40)このみことばが「石ころ」の語源です。叫ぶのは私の務めなのです。

 大人の賢さは信仰を阻みます。信仰には子供ような単純さが必要であり、パリサイ人や律法学者は立派な大人だったので、いくら神の業を目の前で見ていても、その愚かとも思えるイエスさまの手法のために、神であることを認めることは出来なかったのです。彼らの常識がイエスさまを拒否したのだと思います。このことは神が設けられたわなです。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント1:27)

聖霊は私たちを賢くするのではなく愚かにします。人生で身につけてきた大人の分別を捨てさせます。海千山千の年寄りをまるで世を知らない子供のように無防備にしてしまいます。もう、自分でやりくりする必要はないことを知らせてくださり、主の知恵と賢さ、備えにより頼めばよいことを知るからです。
それができるのは、聖霊によってうながされるままに、なにも付け加えず、差し引かずに主を受け入れることによるのです。そうすると完璧な主の守りを日々の生活の中で経験してゆくことになります。

もう、ニコデモのように「どうして子供に戻ることが出来るのか」と言う必要はないのです。聖霊が働くときそのことが私たちのうちに起こるからです。

もしもイエスさまをいくらかでも知るなら、どんなに利口な人でも、いかに自分が無知であるか、取るに足りない者であるかを知ることになり、人間の知恵などに信頼しなくなってしまうことでしょう。
このことを私たちに知らせてくださるのは聖霊、この方によらないと人の言葉では決して伝えることは出来ない事柄であると私は知りました。このことは主の選びによることなのでしょうか・・。私は考えています。いや、主に聴いています。

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