石ころ

みことばの愚かさに在る祝福①(ヨシュア記6章)

 

エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。(1)

 

エリコは、イスラエルを恐れて門を堅く閉ざしていた。彼らの恐れはイスラエルの神の御わざを聞いていたからである。
門を打ち壊して入って来る敵に向かって一斉に迎え撃つことは、それほど困難とは思えなかったのだろう。

 

彼らが本当に神を恐れることを知っていたなら、門を開けて降伏し命を求めただろう。神に勝利する戦略ではなく、創造主を悟り、命を願い求める謙遜があれば滅びなかったであろう。ラハブはそのようにして家族ぐるみで命を得たのだ。

 

それゆえ先に救われた者は、世に向かって神が愛であることを知らせ、一人でも多くの人が聖霊の助けの中で謙遜にされて、天地の創造主である神を悟り、永遠のいのちの救いに与られますようにと祈るのである。

 

主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。(2)

 

門をどれほど堅くしても塀を巡らせても、兵や武器を集めようとも、昔も今も神の計画を変える力など何も無い。

 

あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。(3)

 

みことばを実現するために必要なことは一つ。聴いたことばに忠実であること。みことばは人の小さな脳みそには愚かに思え、主に信頼する者だけがそれを行うのである。

 

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)

 

七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。(4)

 

人の理性にはまったく無意味に思える行為である。むしろその時間は敵の備えを充実させて、守りを堅めさせるだろう。

 

今、世界は理不尽と思える戦いが繰り広げられ、何が良いことであり何が悪いことなのかを明らかにしようと藻掻いている。

 

この混迷は、アダムが善悪知識の木の実を食べて以来、創造主の権威に在るただ一つの義を離れて、身勝手な罪人が善と悪を判断するようになった結果である。

 

人の不幸は善悪の完璧な基準を失って、それぞれが自分の善悪による理屈を掲げて戦い続けることである。此処では事実も真理も平和の役にはたたない。人はみな自分の感情や都合による善悪を持っているからである。

 

完全な義を持っておられるのは創造主なる神だけであり、善悪知識の木の実を食べることを禁じて、ご自身の義にとどまるように命じられたが、人はアダム以来、神の完全を離れた時に平和を失ったのである。

 

今、神はキリストのあがないの故に、すべての悪から人を解放して罪を洗いきよめ、御許に帰るようにと招いていてくださる。

この混迷に疲れて主を求める者は幸いである。永遠の平和は御許にのみ在るからである。


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