石ころ

この神が我が霊のうちにおられるとは(出エジプト19章)

 

あなたは民のために周囲に境を設けて言え。「山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(12)
三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(16)
シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。(18)

 

神は天地創造の昔から永久までも変わることのないお方である。この神が今キリスト者の霊のうちにましますことに、驚きと恐れを覚えずにはいられない。

 

この記事を読む時、改めてキリストへの深い感謝と平安に包まれるのである。すべてはキリストの十字架の御わざによる救いの完成であり、十字架がいかに完璧な救いの御わざであるか悟るからである。

 

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(Ⅰヨハネ4:15)

私たちにとどまってくださる方は、この恐るべき天地創造の力と聖さの神である。私たちに居ます方は父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神なのである。

 

主は完全な聖であるから、決して罪を見逃すことの出来ないお方であって、罪あるままで触れるものは、臨在の山の端に触れただけであっても殺されるのである。
神は罪や汚れを罰して、サタンや悪魔それに加担して神に逆らうものをすべて終わりのない炎で焼かれるとある。

 

しかしキリストに信頼する者は、主を宿しつつ安息して日常に生きている。彼らは良いことを成すにも、悪いことを避けるにも不完全な者であっても殺されることはなく、いや、大いなる祝福のうちに在るのは、すべてキリストの十字架の完璧なあがないによることである。

 

神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(Ⅰヨハネ5:20)

 

神はキリストによって、信じる者の過去、現在、未来の罪をあがなって義とされた者を、キリストのうちにご覧になる。神がご覧になるのはキリストが完成された義であり聖であって、キリストの執り成しによる神の子である。このことこそ神の初めからのご計画であったのだ。それはなんという憐みであろう。

 

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ27:51)

イエスが十字架で霊を神にお渡しになったとき、神と人を隔てていた神殿の幕が上から裂かれた。今、神のことばを求める者には聖霊によって解き明かして、誰でもみことばに親しみ近しく主を知るようにと招いていてくださる。

 

キリストのあがないを受け入れた者はどんなことでも主に祈ることが許され、親しきお交わりを、私たちの霊のうちに備えてくださったのである。「絶えず祈りなさい。」と・・。

年にたった一度それも大祭司一人だけが、恐る恐る神に近づくことが出来た至聖所が、今はキリスト者の霊のうちに在るのだ。

 

この驚くべき特権、キリストによる厚遇に在って、世に生きている中で目にし耳にするものにも、神のみこころが成るようにと切に願い求めて働くようになるのは自然なことである。救われた者はみな神に仕える祭司だからである。

 

キリスト者は明確に知らなければならない。天地創造の神がどれほどに私たちを憐れんでくださったのか、キリストにどれほど完璧な御救いをたまわったのかということを。

その事実に在るいのちをどのように用いるか、主に聴きながらの今日でなければならない。
今、時は恐ろしい勢いで持ち去られているからである。


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