石ころ

信仰の薄い人だなあ


体調は回復したのに、痛みや不快な感覚が執拗に残っている。以前、病院で「神経です」と言われて、精神安定剤かなんか貰ったことがあったけれど、今回も同じ感覚に悩まされていた。

人って、「肉体」と「脳」と「感覚」が必ずしも一致しない事に、遅ればせながら気が付いた。肉体はとっくに回復しているのに、脳がその「事実を把握していない?」あるいは「信じない?」で、痛みや不快感を伝え続けるのかなあ・・ 。

祈ろうと思った。いく度もイエス様に癒して頂いたり、危険からお守り頂いていても、私の中には頑固な不信仰があって、自動的にスッと祈りにはいることはない。その度に、信仰を選び取らなければ祈れない。これは古い私の「脳」の記憶によるのかな?ひとりで遣り繰りして生きてきた記憶。

「不信仰な私を憐れんで、癒してください。この、不快な感覚と痛みを消してください。」と祈る。本当に「不信仰な私をお赦し下さい」以外に言葉がない。イエス様からのお返事は直ぐにあり平安が戻る。不快な感覚は時々軽く繰り返すけれど、「イエス様」と、平安を思い出すと不快感も去る。

ペテロの姑は癒されて、すぐにイエス様をもてなした。ベテスダの池で38年間も寝ていた男は、癒されたら即座に布団を上げて歩き出した。これは本当にすごいことだと思う。この力は、直にイエス様を見ているからなのだろうなあ・・。イエス様が近ければ力も伴う・・イエス様が遠いから反応が鈍くなるのかも知れない。でも、イエス様は今、私の内に居られる。その事実を、直にお会いしているように体験したい。

水の上を歩くことを願っておきながら、沈みそうになったペテロが「主よ助けてください」と叫んだ時、「信仰の薄い人だなあ、なぜ疑うのか」と、手を差し出して彼をつかんでくださったイエス様。
「よみがえりのイエス様を見た」と聞いても信じないトマスに、わざわざ姿を現して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と教えてくださったイエス様。私の望みはこのお方に在る。

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