石ころ

強盗

 

 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。(マタイ27:38)
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ27:44)

 

十字架の強盗たちは、群衆と同じようにイエスを罵っていた。群衆はイエスが自分たちの思い通りにならなかったので罵ったのだろうが、強盗たちがイエスを罵った理由も、自分たちの思い通りではなかったことで罵った、人は強盗になって処刑されていても自分の正しさを主張する。

 

群衆は彼らの義によってイエス・キリストを裁き罵った。強盗たちは、イエスが神と言われながらおめおめと十字架に掛かっている様を罵ったのだろう。「神なら自分を救えと・・」

 

しかし一人は、イエスが苦しみの中で、自分を殺す者を神に執り成す祈りを聴いたのだ。

イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。(ルカ23:34)

わめいていると聞えないキリストの祈りが、聖霊の介入によって耳を澄ましたとき聞えたのだ。彼は隣にキリストの祈りを聴いて悟ったのである。

そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

 

 「十字架につけろ」とわめいている群衆の中には、神殿で商売をしていた者もいただろ。それによって不当な利益を得ていた者も・・イエスは彼らを強盗と言われた。

 

わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にしてしまった。(マルコ11:17)

 

イエスの祈りに耳を澄まして悟らないと、肉から霊に向きを変えて救いに至ることはないが、彼らはイエスからあまりにも遠かった。

 

 ピラトはイエスを釈放しようとしたが、群衆は強盗バラバを釈放してイエスを殺すことを求めた。

 

しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。(マタイ27:20)
すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。(ヨハネ18:40)

 

死者の命を救って生き返らせ、病を癒やし、群衆にパンを与えて養ったキリストを殺し、群衆がこぞって強盗を生かしたのは、バラバは人だからである。
イエスがキリストであり神だと心の底で知ったとき、彼らは自分たちの思った通りではない神を拒んだ。肉は霊を拒絶するからである。

 

 一人の強盗は悔い改めていのちをたまわり、もうひとりの強盗バラバは命を長らえた。しかし、悔い改めることなく神の祈りの家を金儲けの強盗の巣にした者や、群衆を煽ってイエスを殺した大勢も強盗のような者である。

 

救われる強盗と、救い主を殺して自ら滅びに至る強盗。神の目にはみな同じ強盗であって、キリストに出会った時に自分のいのちを決めるのは、神ではなく自分自身である。神はキリストの犠牲を持って救いを近しく置いてくださったのだ。

 

 バラバが命拾いをしても、自分の救い主キリストを知ろうとしなければ、わずかな時の命を得ただけで、キリストにたまわるいのちの実を結ぶことは無い。

十字架で「御国で私を思い出してください」とイエスにそっと身を任せた強盗は、だたそれだけで救いをたまわる第一号となった。彼は何一つ善行を行わなかったし、悔い改めの言葉も無かったが・・。主は彼の心にある神への信頼を見られたのである。

 

神の救いは人が思いもつかないほどに、無力な者に向かって御手を伸べてくださっている。不従順な者に向かって今もなを忍耐の中で、キリストにひれ伏して救いを受けよと・・。

 

イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」(ローマ10:21)

 

 キリストの祈りを聴かない者は自分の弱さを知ることもなく、御前に平伏すこともない。それゆえ救いに与ることができないのである。

人が救われるのは正しさによるのではなく、神のものを虐げて奪い取って生きる強盗であることに気づき、このどうしようもない者を御前に置いて、心からキリストを礼拝する時である。

 

信仰者も神が思い通りでないことでキリストを拒絶して来た。「神なら・・」と思い思いの言葉を付け足して心の底で反発して来た。

神なら災いが起らないように地球を守れ。神なら病など無くせ、神なら貧しい人たちを救え、神ならこの世から悪をなくせ、その時は自分が一番に消されるのだけれど・・。

 

 救われた強盗は自分が何ものであるかを悟ったとき、「イエス様」とはっきり呼んで十字架刑にかかりながらキリストを礼拝したのである。これほどにギリギリのタイミングは他にないが、キリストに渇く者の救いは遅れることはない。しかし、主を呼ぶことを後回しにする者はキリストから遠く離れている。

 

キリストが私たちのうちにいて下さる。これほどに近くにいてくださる感謝の祈りと、聖霊によるみことばの導きがあるから、此処に強盗に落ちることの無い平安があるのだ。


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