「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。
私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。
まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。」(1~3)
モーセに対してつぶやき続けた民に、神はモーセが神の子であることを証しする歌を、歌わせているような章である。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
「自分の汚れで主との交わりを損なう」(5)
汚れはみことばを真っ直ぐに受け容れることなく、人の理屈を持ち込んで、みことばを割り引いたり、付け足したりして捻じ曲げる汚れである。それは神の子のすることではない。聖霊に聴いたことばをそのまま信じないなら、神との関係の基礎を失うのである。
主がみことばを語られる。神の愛を知っている人は聴いた言葉に喜んで応答し、自分のことをちっとも心配しないで導きに従う。時が良くても悪くても、みことばがいのちの約束だからである。
モーセが語ることばはすべて神から出ていて、モーセはそれを自分の口で語って遺すモーセ五書の集大成である。
「主はあなたを造った父ではないか。」(6)
まことに主は人を造り、反抗した罪をあがなって関係を回復し神の子としてくださった方である。永遠へと繋がれたいのちを持っている者に、他に何の不自由があろうか。
世に在って乏しい時には神の養いマナを経験し、病んだときは弱さに働く主の癒やしを経験し、命を守られて働くことに感謝する。豊かな時には、主をほめたたえつつ恵みに浸って、一方的な神の愛に安息するのである。
敵に追われたときには海の中に道が備えられ、災いのときには主の砦に逃げ込んで、将来を約束するみことばのお交わりに浸る。
責められているときに慰めを受け、弱っているときに神の力を受ける子である。
「主はあなたを堅く立てた方ではないか」(6)
神の子らを堅く立てるのはみことばである。聴いたみことばに自分発の何ものも持ち込まずに「アーメン」と従順する。この荒野で、永遠をご存じ主に信頼せずに立っていられる者は居ない。
世は激しく移り変わり、人の心も天候次第で変わる猫の目のようなものである。それをどれほど追求しても真理を知ることはない。造り主を離れた人は根無し草、流れのままの浮草であるから。
人は変わるものであり、神に変えられた者は死からいのちに移される。しかし、世に働く力は悪しきものの支配にあって、すべての道は永遠の滅びに向かって行く。
人がそれを変えることは不可能である。それは神の領域であり、いのちを得させるのは聖霊の働きによるのだ。
神はご自身の愛する者を守られる。それは愛されている者の真実に拠るのではなく、「主はあなたを造った父」(6)ゆえである。
主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。(10~12)