石ころ

「まだ悟らないのか」(マルコ8章)




「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(マルコ8:2~3)

イエス様のお言葉に、弟子は「こんなへんぴな所で」(新改訳)と言っている。イエス様のお側にいるかぎり場所が悪くても、時が悪くても、貧しくても大丈夫なのである。主は無限に豊かで気前の良い方であるから。

イエス様がパン種の忠告をされたとき、パンの奇跡を2度も経験したばかりの弟子たちが、パンが一個しかないと論じ合っていた。
これこそパン種、不信仰が入り込んで不安を膨らませ全能の主を忘れさせてしまう。
このことは今も起こること。神様の恵みを暮らしの中で経験しても、少し問題が変われば「貧しい、苦しい、あれが足りない・・これが足りない」とつぶやく・・。

パウロの告白はすばらしい。此処には主に在る者の自由がある。

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(ピリピ4:12~13)


 群衆を解散させるのはいつもイエス様だった。主は羊飼いだから・・羊飼いの権威によって集め、また散らされる。散らされる者であってはならないと思った。

イエス様が癒し為さるとき、群衆からそっとその人を引き出された。イエス様は神様のわざを伝道の道具にはされない。その人の価値に拠らず、信仰さえも問わず、ただ、ただ可哀想に思っていやして居られる。言いふらすことも好まれなかった。

 普通の暮らしの中にあって、世から区別されているキリスト者のいのちそのものが伝道なのだろう、大切なのは主によって生きる一日一日である。
それは人が褒められることではない。世は、弱い人の中に居られるキリストを発見して感動するのであり、立派な行いとは、ただキリストにより頼んで生きている姿である。此処に取り繕いの嘘はない。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)

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