石ころ

自分の十字架(マルコ8章)




そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(マルコ8:29)

 この直後にイエス様が話された言葉は、ペテロにとても理解できるものではなかった。まるで裏切りのように感じたことだろう。彼が、すべてと引き替えにして従ってきた主は、彼の唯一の望みであったから・・。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(マルコ8:31)

死人をもよみがえらせる方がなぜ殺されるのか・・人を癒し、救いを語る方がなぜ排斥されるのか、この時理解できる人はいない。
イエス様に従うことは理解できるからではなく、納得できるからでもない。ただ、そのままで自己を差し出して従う他ない。

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(伝道3:11)

復活の確信がもてない信仰にはなんの望みもない。でも、それは時間を必要とすることであり、聖霊による学習や経験を必要とすることでタイムラグがある。それを埋めるのは無条件の従順ではないかと思う。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:32~33)

イエス様は「ペテロ、引き下がれ」とは言われなかった。もし、そう言われたならペテロは終わりである。イエス様は彼に働くサタンの言葉を退け、聞いていた弟子たちも守られた。
「神のことを思わず、人のことを思っている」この区別は人にはわからない。ただ、この時はペテロが自分のことを思っていたことも事実だ。神を思わず人のこと思うのはサタンのわざ。

ここで「自分のこと」ではなく「人のこと」と書かれてあるので、それが人類愛によることであっても、神より出ていないことはサタンの罠かも知れない。
しかし、永遠を見ることのできない人が、いったいどのようにしてこのことを見極めることができるだろう・・。

ただ重要なことは、イエス様はペテロのだけのメシアではなく、ユダヤ人だけのメシアでもない。全人類のメシアであり、創造主なる神様のみこころを行う方とわきまえることである。

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:34~37)


イエス様は群衆にも永遠のいのちの価値を教えられた。知った者には責任がある。そうして私たちも・・。
いのちには命を支払う。人は肉の命を差し出すことによって、永遠のいのちを得るのである。命を失ってからでは手遅れであり、生きている今しか差し出すことができないのが命である。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。(マルコ8:38)

自分の十字架その肉の死を帯びて、世では愚かな十字架のことばに従順するのである。
復活の望みを抱いて・・。

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