石ころ

一件落着



 主人は鍬を担いでご近所さんと竹の子掘り。そう例年通り、年中行事のひとこまだけれど、昨年は「今年でもう終わりかも知れない・・」そう思ったものだった。

昨日は医大へ、先日のPET検査の結果を持って行って説明を受けた。
長期戦になりそうな予感に、先日から車で通うようになっていた。幾らか安く通うことができるのでそのほうが助かる。主人の運転も守られて心配することは無かった。

昨年の検査で肝臓などに多数散らばっていた癌は、今はひとつであった。それは少し大きくなっていたけれど、血液検査の結果を見る限り、隣接する肝臓、膵臓などを圧迫している様子はないとのことで、今後血液検査を続けて様子をみるということに落ち着いた。
歳を取れば、内なる敵と共存することを選択することも良し・・。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)


 今日、掛かり付け医に報告に行った。「これで良いと思いますよ。」と言ってくださった。このことばは主人の安心にもなる。
主人はよく食べて、よく眠る。私たちは良くしゃべるし、くだらないことで良く笑う。癌騒ぎの最中でも、いつもどおりでなんにも変わらなかった。

「しかし、お前は何があっても冷静やな。」と主人が言った。
「イエス様を知って居るからだよ。大丈夫だって分かっているから・・」
「確かにそうやなぁ・・」と主人は言った。
こうは言ったけれど・・、実はずいぶん要らぬ心配もし、心の中で狼狽えもしたんだけれど・・。

でも、主人の前ではいつも「大丈夫」と落ち着き払っていることができた。私が動揺したら主人は不安になる。不安はいつもどおりの暮らしを壊す。食欲をなくし、睡眠を妨げる。それは健康な人でも病になること。
いつもどおり・・それは窮地に立ったときこそ守りたいこと。




それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。(ルカ22:39~40)


 今週のメッセージで、十字架刑を前にイエスさまは「いつものように・・いつもの場所で・・」祈られたことを話された。
「いつも」がどうであるか・・その大切さを教えられた。何か事があったときには人は何も出来ない。急にみことばを求めてもそんなドタバタでは得られない。

いつもの親しみの中で、霊の宝物倉に蓄えられているみことばから、聖霊によって時に叶ったみことばが示される。
それは、一寸先も見えない闇夜の危機に、「足のともしび、道の光」として安全な導きとなり、何時も通りの平安が守られる。

その時・・、どれほどオタオタしていても、みことばは碇のように世の波風による動揺を治め、立つべき所を守ってくれる。

そう、人の愛は不完全だから、絶えず揺れ動くものだけれど、神の愛の完全さの中に居らせてくださるから・・

誰も先のことは分からない。何が完全であるのか最善であるのか・・それは時に偶像のようでもあったりする。
しかし、すべての創造主だけは、すべての初めから終わりまでを知っておられる。だから、この方に身を寄せることほどの安心が他にあろうか・・。簡単な結論である。


 竹の子掘りのおじいさんは、残念ながら竹の子を持って帰ることができなかった。スカンポとわらびと木の芽・・。
おばあさんは文句を言った。「木の芽があっても、肝心の竹の子がない・・。」

「竹の子なんかどこにあるか。まるでブルドーザーが搔いたように、掘り返されてなぁーんにも無い。」おじいさんの言い訳。
そう、まだまだ芽を出さない内から、イノシシが盛んに掘り返していると言っていた。
猪に鹿に・・今、山里は彼らのやりたい放題。人にはどんどん貧しくなってゆく山の恵み。
あきらめてワラビご飯で満足しよう。スカンポ剥いて灰汁取りしよう。
木の芽は・・後で考えよう。

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