さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。(マルコ3:13)
弟子は、イエスさまの「お望みになる者たち」であった。キリスト者が、イエスさまの「お望みになる者たち」であることに気付くとき、それだけで大きな平安と喜びを頂く。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3:28~29)
「アーメン。ソーメン、冷やソーメン」なんて小さい頃にはやし立てた。でもそれは赦された。それが無知のゆえであったから・・。
しかし、明確に神のわざをねじ曲げることは、聖霊を貶めていることでありそれは赦されない。
なぜなら、人は聖霊に拠ってイエスさまを告白して救われるのだから、自ら救いの道を閉ざすことになるのだ。
イエスさまの家族は霊の一致による家族で在る。マリヤもその例外ではない。
イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。(マルコ3:21)
また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(マルコ3:22)
イエスさまの評価は、人によって時によって大きく変わった。ほめたたえられたり、罵られたり、悪霊憑きと言われたり、気が狂っているともいわれた。
キリスト者がイエスさまに似るなら上出来なのだから、人の評価に足台を置かない自由を持っている。
イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:33~35)
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