イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。
彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。(マルコ3:1~2)
イエスさまのわざは、救いを得させるためになされる神の証である。しかし、彼らが「じっと見ていた」のは、その方を殺す口実であった。
主は今も忙しく働いておられる。今も主はわざをなしてご自身を証してくださっている。
イエスさまは、その人を「真ん中に」立たせて神のわざを行わた。そこで、萎えた手が真っ直ぐになるのを、全員が見たのだ。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)
イエスさまは安息日にも主、安息日は人のためにあるといわれた。そう、神の安息日は人を生かすためであったのに、彼らは救い主を殺すために用いた。
それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。(マルコ3:4)
「癒し」という善を見て殺すことを相談する宗教、「殺すな」と言う律法に背いても立場を守ろうとする宗教者。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
イエスさまは彼らをも十字架でとりなしてくださった。
目の前の神のわざを見ても、心が悪ければ信仰に結びつかない。彼らの目は頑なに閉じていていた。ただ、イエスさまを殺す口実だけを見ていたのだ。
人は見るものによっていのちか、死かを選び取ることになる。彼らはイエスを殺す方法を相談した。
また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。
イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。(マルコ3:11~12)
彼らはイエスさまを知らず、汚れた霊どもは知っていた。彼らは汚れた霊以下だが、主を礼拝することを許されているのは人であり、汚れた霊が主を証することは許されない。
主を礼拝する特権は人にだけ与えられている。主をほめたたえ、賛美する光栄をたまわっているのだ。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29)
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