人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。(1)
罪に対して、見て見ぬふりをすることはのろわれるとある。確かに見て知っているのに、見ぬふりは罪を放置することである。罪を証言することによって、解決に至るささげ物が捧げられ、あがなわれて罪が解決されるからである。
「軽々しい誓いによって後で責めを覚える場合」もあがなわれる必要があることが書かれてあり、このような咎めは今も経験することである。
このような時も私たちは、キリストの赦しを願って祈るなら、十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、その咎が赦された確信を得るのである。
このようにして思い出した罪を直ちに祈る中で、咎めを負い続けて忸怩たる思いで生きることから救われているのである。此処に世の知らない平安がある。
人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。(15)
今、キリスト者の献ものはキリストである。キリストのうちに抱かれて自分自身を捧げるのである。
「主の聖なるものに気づかずに罪に陥ってしまった。」とある。
キリスト者が主の聖なるものに気づくためには、聖霊の導きに拠らなければならない。善悪知識の木の実を食べたアダムの血筋の人間には、何が神の聖であり、何が汚れであるかを悟ることが出来ないのである。
それゆえ神の信頼に応えることにも、裏切っていることにさえも気づかないのである。気づくことがなければ、何十年経っても主を知ることはなく、その関係は遠くにあって、自分の善悪によって生きることになる。
もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う。(17)
人は良心に責めを覚えることで罪を知り、その罪の痛みによって救いを求める。その時、神はひとり子イエスの命によって、その罪のすべてをあがなって救ってくださる。主は、罪に痛む病人が癒やしを求めて来ることを待っていてくださる。
しかし咎めを覚えない者は罪びとでもなく、キリストを必要とすることはない。その人はキリストとの関係を望まず、自分の罪を負ったままで死ぬことになるのである。その死は永遠の滅びである。
しかし世をも愛する神は、すべての罪びとが咎を覚えてキリストを求め、十字架のあがないに感謝して礼拝するなら、すべての罪の赦しをたまわり神の子とされて、永遠のいのちの救いを頂くのである。
聖霊による罪の咎めを覚えることは祝福となる。キリストはご自分の命と引き換えに、その罪を洗いきよめて罪咎を解決してくださったから。
罪の自覚によってキリストの救いを求める者は、罪の悩みを経て永遠のいのちという祝福を受けることになる。
これは代償のささげ物である。彼は確かに主の前に償いの責めを負っていた。(19)
些細な罪と思えることであっても、その罪のためには、あがないの血が流されなければならないのである。此処に罪の自覚がないということによる恐ろしさがある。
心の中の罪でさえも主が見過ごしになさらないのは、正しいと思っている人の隠れた罪があがなわれ、キリストの御救いによって永遠のいのちに至るためであり、罪の咎めを覚えない人の正しさはのろいである。