ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

ある砂浜の話

2024-05-04 | 日記
神戸市須磨区にある須磨浜


かなり以前になるが、かのビーチボーイズが1979年にリリースしたアルバムの中にSUMAHAMAという歌があった。1995年頃、たまたま購入したCDに入っていたのだった。ビーチボーイズが好きだった夫は仕事で出張した折、運転中の退屈を凌ごうと、そのCDを持参し、車のプレイヤーにかけて初めて聴いた。夫は帰宅して、早速私に聴かせてくれた、「ちょっと悲しくて、寂しいんだけど。」と言いながら。

当初SUMAHAMAは、SUNAHAMAのミステイクかと思ったが、同時に須磨海岸のことだろうか、とも思った。何故ならその歌詞に日本語の箇所があり、「綺麗な白い浜」とあり、いつか目にしたカラー写真の須磨海岸の、その砂浜が白かったのを覚えていたからだ。

かつて系図関係で罹った調査熱が再び上がり、ちゃんと調べてみようと割と真面目な顔になって今件を調べたくなった。すると、SUMAかSUNAかの小さな論争は、アルバムのリリース当時から割とあって、アメリカでは、32年間日本に滞在した方(つまり日本通)が、あれはSUNA砂だ、というご意見、またある人は自分は神戸市須磨区の須磨海岸に行ったことがある、だから、あれはSUMA浜だとおっしゃっていた。このアルバムは日本でもリリースされていたから、日本でもそうした疑問はもちろんあったようである。

するとSNSが盛んなひと昔プラスも前にこの件に関する記事が日本にあった。 関西圏の朝日放送にバラエティーショウ「探偵ナイトスクープ」があり、司会者は西田敏行氏と山田五郎氏の御両人という番組で、この件に関して件のトピックがあったと言う。そして、この番組で、とうとう「謎」を解き明かしたのだった。

たまたま2012年に訪日し、ホテルオークラに滞在していたビーチボーイズに、この番組は、突撃取材をして、メンバーから真相を聞いた、と、ある方のブログ記事にあったのだ。

そして番組では、実際にリポーターが事前依頼なしの、文字通り、突撃取材が幸運にもでき、それもこの歌の作者、Mike E. Loveマイク・ラヴ氏ご本人に直接質問できたのだ。その結果、真相が明らかにされた。

真相は、SUMAHAMA須磨浜である。やっぱり!
曲は、そのアルバムのジャケット同様、アメリカ人的なオリエンタル調だが、綺麗なメロディと歌詞ではある。

ラヴ氏によれば、一時的に日本人女性とお付き合いをした時の歌、だということだ。その方は5歳まで須磨在住で(その後渡米なさったらしい)、この浜辺がお好きだったらしい。ラヴ氏は、彼女から須磨海岸の話を聞き、写真をご覧になり、そこからこの曲が発想されたようである。

東京生まれで、横浜育ちの私は、幼い頃から米軍人をよく見かけ、同時にそうした軍人と連れ立って街を行く日本女性もお見かけしたものだ。全てのそうしたカップルが結婚には至らず、終わりを告げた恋物語もあったことだろう。この曲の哀しみのある歌詞からは、必ずしもこの少女の父親が外国人だとは限らないが、母親が恋に落ち、少女が生まれる前に別れてしまったことは確かだ。

昨年のファミリーヒストリー番組、草刈正雄氏の回は、どなたももらい泣きになられたことだろう。草刈氏の母堂の潔い強さは、並大抵のことではなかったと想像できる。あのような話は、本当に多くあった。

私の母は、昔大磯の澤田美樹女史のエリザベス・サンダース・ホーム、あるいは混血児とその未婚の母親のために、弱小ながら援助やその他のできることをしてきた人だった。母はその関係で、親しくなった女性とその美しいお子さんを時折、5人子供のいる我が家へ連れてきたので、子供同士遊んだものだ。

そんなことから、悲哀なエピソードをいくつか話していたのを私は覚えている。今でもSUMAHAMAを聴くと、メランコリックになって、かつてそのような生い立ちのあったことを思い出したりする。

そうだ、そういえば、私の夫と私も生い立ちは太平洋を挟んだ彼方と此方ではないか。それでも、この歌のような哀しい背景は一切なく、むしろのほほんと普通に暮らしてきて、離婚の危機さえ持ったことはなかった。アリゾナ州とカリフォルニア州の我が家を訪問してくれた母は、当時専業主婦・母親をしていた私を見ては、つくづくと「あなたはとても幸せなのよ。」と呟いていた。でもそうなのは、私だけでなく、姉たちや、母の妹も、結婚生活は不幸ではなかったし、伴侶の逝去までむつまじく添い遂げている。

ラッキーな部類にはいるのかもしれない。私自身の石橋を叩いて渡るような性格も幸いだったのかもしれない。結婚に至るまで、プラトニックを貫いたのもプラスだったのかもしれない。




Sumahama

There's a lover's leap in old Japan
Where the lovers walk along the sand
Hand-in-hand at Sumahama
Sumahama
Born a lovely oriental daughter
Never ever having met her father
Asks some questions of her mother
Tell me, tell me mama
Will you ever go again to Sumahama
Perhaps you'll find love there
Somewhere between the Earth, the sky and water
There at Sumahama
Sumahama
In the autumn as the leaves are falling
One can almost hear the lovers calling
From the sea at Sumahama
Years have past and tears have long since dried
But no amount of time could hope to hide
A love so strong from Sumahama
Tell me, tell me mama
Will you go with me back to Sumahama
Perhaps you'll find him there
Somewhere between the Earth, the sky and water
There at Sumahama
須磨浜
そこは恋する人たちが
手に手を取って歩いた
綺麗な白い浜
いついつ、ママ、須磨浜に
いつ又行くの
過ぎた愛を探しに行く
海の彼方、須磨浜
須磨浜
There's a lover's leap in old Japan
Where the lovers walk along the sand
Hand-in-hand at Sumahama
須磨浜
秋に木の葉が散るように
寂しく悲しい恋の歌
須磨浜の海から

Source: LyricFind
Songwriters: Michael Edward Love Sumahama lyrics © BMG Rights Management, Wixen Music Publishing

須磨浜

須磨浜


昔の日本には恋人のハードルがある
恋人たちが須磨の砂浜で手を繋いで歩く場所には
須磨浜
素敵な東洋人の娘が生まれ
父親には一度も会ったことがない
母親にいくつかの質問をする
教えて、教えて、ママ
もう一度須磨浜に行きますか?
もしかしたらそこで亡くした愛を見つけるかもしれない
陸と空と水の間のどこかに
須磨浜に
須磨浜
木の葉が落ちる秋に
恋人たちが呼んでいるのが聞こえてきそう
須磨浜の海から
須磨浜
何年も経ち、涙はとうに乾いてしまった
でも、どれだけ時間が経っても隠すことはできません
須磨浜からの強い愛
教えて、教えて、ママ
一緒に須磨浜に帰りませんか
おそらくあなたはそこで彼を見つけるでしょう
陸と空と水の間のどこかに
須磨浜に
須磨浜
そこは恋する人たちが
手を繋いで歩いた
綺麗な白い浜
いついつ、ママ、須磨浜に
いつまたいくの
過ぎた愛をさがしにいく
海の彼方 須磨浜
須磨浜
昔の日本には恋人のハードルがある
恋人たちが須磨の砂浜で手を繋いで歩く場所には
須磨浜
秋に木の葉が散るように
寂しくて悲しい恋の歌
須磨浜の海から

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親というもの

2024-04-30 | 家族



母の日はあと2週間ほどで再びやってくる。実際に父親、母親となり、育児をして成人して子供を送り出しても、(母)親業に終わりはない。自分を後回しにすることはほぼ癖になっているのは否めない。それが良いかどうかではなく、私自身は子供と共に親の私も成長させてもらったと思う。下記は、そんな母親についてのメモをいつかどこかで新聞から切り抜いた作者不詳のもので、「なんでもとっておきたいファイル」から取り出してみた。


誰かは、出産後、物理的にあるいは精神的に通常状態に戻るのに約6週間かかると言った…その「誰か」は、母親になると、「通常」は過去のものになるということを知らない。

母親になる方法は本能で学ぶ、と誰かが言った… その誰かは3 歳児を連れて買い物に行ったことはなかったのだろう。

母親であることは退屈だと誰かが言った…その誰かは、仮免許証を取得したばかりの十代の若者である息子や娘が運転する車に乗ったことはないのだろう。

あなたが「良い」母親であれば、子供は「良い子に育つ」だろう、と誰かが言った…その誰かは、子供には取扱書と保証書が付いてきている、と思っている。

母親になるのに教育は必要ない、と誰かが言った…その誰かは、一度も小学4年生の我が子に算数を教えたことがないのだろう。

最初の子供を愛するほどには 5 番目の子供を愛することはできない、と誰かが言った… その誰かは、 5 人の子供を持っているわけではない。[注:長子であろうが、5番目の末っ子であろうが、親指だけが大切で、残りの指は必要ないことは決してないと私ははっきり断言できる。]

母親は子育ての疑問に対するすべての答えを育児書で見つけることができる、と誰かが言った。自分の子供がその鼻や耳に豆を詰め込ませて、おかあさん、見て!と誇らしげな時があることについてはスポック博士も書いてはいない。

母親であることの最も大変な部分は陣痛と出産だ、と誰かが言った…彼女の「赤ん坊」である息子や娘が幼稚園の初日にバスに乗るのを見たことはないのだろう…あるいは我が子が軍隊志願をし、「新兵基礎訓練所」に向かうのに飛行機に搭乗するのを見たことがないのだろう。

母親は目を閉じて片手を後ろ手に縛っていても仕事ができると誰かが言った…ガールスカウトのブラウニー(茶色のユニフォーム着用のため、そう呼ばれる)たちの所属隊の基金設立のために、その母親たちがガールスカウト・クッキー販売を組織したことはないのだろう。

子どもが結婚すれば母親は心配しなくても済む、と誰かが言った…結婚が母親の心の琴線に新たに息子や嫁を加えるということをその人は知らないのだろう。

母親の仕事は最後の子供が家を出たときに終わると言った…その誰かは、孫を持たなかった人なのかもしれない。

誰かが、あなたのお母さんはあなたが彼女を愛していることを知っているから、お母さんにそれを言う必要はない、と言った…その人は母親ではないのだろう。

お母さんたちへ、毎日が幸せな母の日であらんことを!




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いつか

2024-04-24 | 私の好きなこと


不意の来訪者が応接間に入る時、「あ、散らかし放題ですみません。子供たち(孫たち)がまだ小さくて。」と、言い訳がましいことを口にする経験は母親・祖母のどなたでもおありではないだろうか。あるいは、私だけかもしれない。少なくとも私はそれを15年以上続けてきたし、空の巣時代に突入しても、子供たちの雛形の子供たち(孫)という戦陣が控えている。

現役の育児期には、いつか、子供たちが成長したら、親の人生は「変わる」、「変わるはずだ」、「変わるかもしれない」、やがて「おそらく無理かもしれない」という変遷を経ている。

冷蔵庫のドアに色とりどりの付箋が貼られ、「子供#3午後 2 時に小児科医」や「#2,#3, #4木曜日午後6時カブスカウト101隊のパック・ミーティング」、「#1~5水曜日ピアノレッスンは金曜日に変更」(注:#1~5は長子から末子の略)だのが、いつかは、「火曜日午後、美容院」、「土曜日午後夫婦でアート ギャラリーを閲覧」、「月曜よりヨガ レッスン開始」と書かれることを夢見たものだった。

いつか子供たちが成長したら、家から落書きが絶対になくなるはず。 壁に緑色のクレヨンで描かれた「作者」のお名前(それでも「自白」はなし)、車の後方ウィンドウの埃に、Clean Me!!!!!(綺麗にして!!!!!)と指で描かれた言葉、そして固形石鹸に刻まれたイニシャル(容疑者はイニシャルだけに上がっているが)もいつかなくなることだろう。

いつか、子供たちが大きくなったら、引きちぎられたテディベアの鼻や目、時には手足を縫い付ける緊急手術をしたり、幼児がドッグフードを食べようとしている寸前で止めたり、午餐に訪問客をお呼びしてあるので、白いテーブルクロスを広げた途端、赤いガミーベアがべっとりと貼り付いているのを発見し、大急ぎで洗濯を始めねばならなくなり、予定した文化的なこと(つまり読み始めた本を最後まで読み通す)を変更することもなかろう。

いつか子供たちが成長したとき、ベッドの下でひっそりと茶色く干からびたリンゴの芯も、トイレットペーパーがすっかりなくなって、その芯だけが、ハンガーの空のスピンドルに残っていることも、デニムジーンズのポケットにひそやかに潜むビニールのやけにリアリスティックな毛虫も見つからなくなるだろう。 そして、机の引き出しの中には削って使用準備の整った鉛筆が入れた時のままあり、冷蔵庫の中に残ったパイのスライスが入れた時から微動だにしていず、もちろん齧った歯形もなくあり、日曜新聞の漫画ページがまだ残っているのを見つけることができるだろう。


いつか、子供たちが大きくなったら、キーシュ・ロレーインやホタテ貝のアマンディーヌ、あるいはただの芽キャベツと玉ねぎを炒めただけを作っても、誰も「うへ〜!!」とは言わなくなるだろう。 「ホットドッグがあればよかったのに!」 または、「隣のブランドンは、幸運だよ。母親は夕食にチョコレートバーを食べさせてくれるんだ。」といううそぶきは聞こえないだろう。

そして、私たちが文化的に、たまには、と、蝋燭の明かりで食事をしていても、誰も「もっとおいしくするために」エンドウ豆やにんじんをフォークにさして、その蝋燭の火で焼こうとしたり、食べ終わったら誰が、その蝋燭の火を吹き消すかについて一大論議・紛争が勃発したりすることはないだろう。

いつか、子供たちが成長したら、何艘もの赤や緑や青のプラスティックのボート、ゴムのワニ3匹、湯によって色の変わる金魚のおもちゃを数種、そして濡れたテニスボールを浴槽へ、放り入れなくても、お風呂の準備ができるようになるだろう。いつか 私自身は丸一時間、熱い湯気と微かな芳香のある泡のバスタブで贅沢に過ごせるはずだ。#1から#5の誰かが、あるいは5人全員に、ドアを拳で叩かれることも、「ママ、早くして!お手洗い行きたいから。」と叫ばれ、「他の二つのバスルームへ早く行きなさい!」と叫び返す必要はないだろう。
そう、いつか、子供たちが成長したら、人生は変わるだろう。

そして子供たちはいつの間にか私たちの巣を離れ、家は静かになり、穏やかになり、夫が逝去し、私には未亡人というタイトルがつき、下の応接間でピンを落とせば、2階の寝室でその音を聞けるほどの静寂だけが残された。
そして、私はそれがまったく気に入らなかった! 

...この先「いつか」ではなく「かつて」を振り返りながら過ごしていくのだろう、と感傷的になっているうちに、ほぼ1歳と5歳のヤンチャな孫息子たちが見事に花咲爺さんの如く, おもちゃをばら撒きながら、一歳児は一歳児言語で、そうすることの正当性を理論付ける。

これでいいのだ、と、ワセダの隣のバカタ大学出身のバカボンパパは、きっとそう言うだろう。私もそれに同感する。

夫や私の周りにいたのは、訓練中の天使たちだと認識したら、それが「いつか」なのだろう。


もちろん、おもちゃ箱はこれだけではない
これだけの筈はない。決してない。
お蔵がいるほど。
孫#10。






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出ていけ、と言ったのは

2024-04-20 | 真理



1999年から2004年にかけてCBS局ではジェーン・クレイソンという当時トップクラスのジャーナリストが時事問題的な会話をゲストと交わす番組があった。あれは2001年以降だったと思うが、彼女がアン・グラハム・ロッツにインタビュウした。あのビリー・グラハム*氏の次女である。

その番組で、ジェーン・クレイソンは、2001 年 9 月 11 日の出来事について、アン・グラハム・ロッツ氏に尋ねた。 クレイソンは「どうして神はこのようなことが起こるのを許すことができたのでしょうか?」と尋ねた。グラハムは非常に深く洞察力に富んだ回答をした。
 
彼女はこう言った。

「私たちと同じように、神様もこの件で深く悲しんでいると思います。 しかし、私たちは何年もの間、神を学校から、政府から、私たちの生活から、抜け出すように神に言い続けてきました。 そして、神は紳士なので、冷静に撤退したと私は信じています。 私たちが私たちを放っておいてほしいと神に要求するなら、どうして神が私たちに祝福と保護を与えてくださると期待できるでしょうか?」

*ビリー・グラハムについての過去記事から。
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恩返しのバトン

2024-04-17 | 人間考察




以前アメリカ映画でPay It Forwardという題名の作品が人気を博したが、日本でも「恩送り」という言葉は、古来より久しく存在している。ことわざの「情けは人のためならず」は、昨今往々にして、情けは人のためにならない、と誤訳されるが、意味は、Pay It Forwardと同じだ。

人に思いやりを持つことは、その困っている人のためだけではなく、思いやりといういわばバトンを回すように、やがてそれは巡り巡って自分を幸せにするものであるという意味である。日本の文化に深く根付いている大切な考え方である。

ほぼ1日用事があって留守をしていた私が、ドライブウェイに車を乗り入れた途端、ちょうど袋小路を散歩していた隣人のキャシーが近づいて来るのを目にした。

私は運転席の窓を開けて、「キャシー、お元気?」と言うと、彼女は「ええ、ありがとう、あなたの具合はいかが? あのね、今日は、今朝からとてもいい気分になれて。」と話始めた。

「今朝、化粧も髪も整えていない状態で、近くのコーヒーショップへ行ったら、とても素敵な女性が私のところに来て言うのよ。『まあ、あなたはお綺麗で、あなたのドレスがとてもお似合いで素敵ですね。』と言ったの。私は嬉しくなっちゃったわ。

それから自分の車をサービスのために修理所に置きに行ったの。 そこの受付に座っていた女の子がゴージャスな爪をしていたので、『わー、あなたの手と爪はとっても美しいですね。』と言うと、彼女は、にっこりとして、ありがとうと言ったの。」

キャシーは続けて話す。
「修理所からは、申し込んでいたウーバーに乗ったのだけど、中年のアジア人男性の先客と一緒だったの。するとそこへ面識のない御高齢の、歩くのもおぼつかないご老人からの同乗の依頼が入って、ウーバーの運転手は謝りつつ、このご老人の同乗をお願いします、と頼んだの。もう一人の乗客とわたしは、それならその方の分も私たちが割り勘でお支払いしますから、と返事をしたのよ。その運転手さんは、とても親切で、もう一件の乗客を増やしたことを謝っただけでなく、その御老人宅に着くや否や、下車して、その方を家まで迎えに歩いて行ったの。 その御老人を丁寧に車にお乗せしてから出発したの。 先に私を降ろしてくれた時、そのウーバー運転手は、私に、『あなたはなんて美しい思いやりのあるご婦人なんでしょうか』と言ったのよ。私がチップを渡したら、彼は後で私にメッセージを送って感謝の意を表してくれたの。」

「そして今日遅くに、別のウーバー運転手で修理所に車を取りに行ったの。車に乗り込んだとき、運転手の女性の香水がうっすらと良い香りで、とても素敵だと褒めたら、すぐ打ち解けて、私たちは気軽にしばらくおしゃべりをしたのよ。すると途中で彼女は、自分のバッグの中に手を入れ、私にその香水をくれたの。『それは私からあなたへの贈り物です。』と彼女は言って。 

今日ちょうど医師から先の検査結果が少し芳しくないと聞いたばかりだったので、そんな優しさに思わず泣きそうになったわ。 もちろん私は彼女にも精一杯チップをはずまさせて貰った。」

「 時々、単純な褒め言葉が誰かの一日を豊かにすることがある、ということをあなたにお伝えしたかったのよ。ごめんなさい、引き留めちゃって。ガラージに早く車を停車しなくちゃね。

あなたも明日よい1日になりますように。」 

と、キャシーは言い、私の肩に手をかけて、「あなたが御伴侶を亡くされてすぐに、ご自身の癌治療が始まり、辛い日々もまだまだおありでしょう、でも私は、毎日あなたとあなたの御家族をお祈りに加えていることを忘れないでね。いつでも私にできることがあれば、教えてちょうだいね。あなたは一人じゃないのよ。」と付け加えた。

出先の用事をいくつか済ませて、少々疲れて帰宅した私には、彼女のお話は心に沁みたし、明日からの希望も再び湧いてくるように感じ、素直に嬉しかった。

誰かに、なにか心から素晴らしいことを言うのを恐れないでいよう、と思った。あなたはただその人の一日をより良いものにするかもしれないから。

ありがとう、キャシー。私は、あなたの御健康を毎日、祈りに加えているわ。

そして、。。。。
翌朝一番に、この人に褒め言葉をかけた。
するとこんな笑顔を送ってくれた。








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