主人を亡くして「悪いことでした」とか、「お気の毒に」とか「ご不幸」という言葉を聞く度に、「いや、違う!」という叫びを飲み込んできた。
懸命に生きて辿り着いたゴールなのに、どうしてそれが不幸であり、気の毒であり、可哀想であってよいだろうか。
誰もが辿り着く終着点が本当にそれで良いと思っているのか・・そんな苛立ちを覚える。
いかに良い生き方をしても、どれほど成功を収めても、最期が必ずそういう言葉で終わるのが人生なんて・・それで満足なのだろうか。なぜそのことに疑問を持たないのだろう・・。
私は主人を「良くやったね。おめでとう」と心の内ではほめている。葬式の間もその思いがずっと内にあった。常識によって世に倣えをしていたので、口に出せずにずっと欲求不満なのだ。
私の死亡時に、誰かが「おめでとう」と祝福してくれたらとても嬉しいと思っている。まあ、遺言ではないので無理しなくて良いけれど・・事実は変わらないのだから。
人は世に来るとき、産み出そうとする母と、生まれようとする子が苦しみを通ってゴールするように生まれてくる。それには誰でも「おめでとう。よくやった」と祝福して喜びほめる。
天国に産み出す母の苦しみは、すでにイエス様が十字架で負ってくださったので、自分の分だけ負うことになる。
死という産道を通って天国に生まれて行くのである。それも、もう二度と死ぬことのないいのちに生まれて行くのである。それは実に「おめでたい」こと。
しかし、悲しい例外はある。いや、例外のほうがはるかに多い。それは神様の悲しみである。
決してみこころではないことだけれど、イエス様という十字架の産道を通っていない死は、聖書に出てくる「金持ち」(ルカ16:19~31)の死のようである。
彼は、死んで後の苦しみを兄弟に味合わせたくないと、世に残した親族の分まで苦しみ、天国にいるラザロを世に送って忠告してくれと頼むのである。勿論それはできない。死後もなを世を引きずることこそ地獄の様だと思う。
天国にある者は、神さまに世での涙をすっかりぬぐわれて、世とは完全に終わっているのである。それは完璧な「さよなら」状態である。
その証拠にラザロには世もゲヘナの金持ちも見えてはいない。
私が主人と再び出会ったときは、互いを良く知っては居ても、世の関係を引きずってはいない。それは世の続きではなくまったく新しい出会い、それは真っ新な出会いである。世にあった人の罪が欠片も混ざらない関係なのだ。
世ではどんなに仲の良い夫婦も家族も、何らかの罪の影を引きずっているものだが、天にそんなものが混ざるはずはないのだ。
だからこそ、その出会いが楽しみなのである。それはかって見たことも聞いたこともない素晴らしい交わりだろうから・・。
まして、まことのいのちの主であるイエス・キリストに間近にお会い出来るのだ。私を知り尽くし、緋のように赤い罪を雪のように白くし、神の子どもとしてくださったお方にである。本当にそれはワクワクすることである。
どうか不幸な死が当然などと思わないで欲しい。悲しいゴールが当然であるなどとあきらめないで欲しい。そんな最期しかないのなら、なぜ世で頑張るのか・・それはまったく意味のないことではないか。
神のかたちに造られたほどの人が、そんな刹那的なものであろうはずがないのだから。
イエス様が十字架で成し遂げてくださった罪のあがない、その結果与えられている永遠のいのち、それを自分のものとして受けることが出来るのは、世に生きている間しかないのだ。
どれほど家族が祈ろうと哀願しようとそれだけは、自分自身で生きている間に選択しなければならないことなのだ。主に在って忠告するなら、そのチャンスはあなたにとってこの瞬間しかないのかもしれない。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:1~2)
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ムベ
電気屋
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