石ころ

息子と聖書を読む 2007.3.3


「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』(ルカ13:24~27)

私「なぜ、イエス様と共にいた者が知らないといわれるのだろう。不正とは何を指しているのだろう。神のみこころを行なわなかったということかなぁ。」
息子「そんな難しい言い方をしなくても、『自分勝手に生きていて、イエス様を一番にしてはいなかった』からだろう」

彼の答えは単純明快だった。単純だけれど厳しいなあ。後の者が先になる・・

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コメント一覧

石ころ
本当にお久しぶり!
 私は、元々霊的な飢え渇きなんて・・持っていないのではないかと思うことがあります。自分の不安によっては祈るけれど、順調で在れば平気で主を抜きにして居られるのじゃないか・・。

主を求めているようでも、純粋な霊からの深い渇きによってではなく、もっとなにか他のものによって・・、例えば人の褒め言葉とか・・自己満足とか・・そんな混ぜものがあるのではないかと思えて恐いです。

だから、ただ主の忍耐によって、イエス様の十字架のご愛によって安息します。
ラベンダー♪
お久しぶりです^^
息子さんのお言葉に、ドキリとしてしまいました・・!

イエス様を愛しているし、イエス様に従っていきたいと思っているのに、
イエス様をいつも一番にはしていない自分がいます。
どうしてなんだろう?・・・と、最近考えていたところでした。
何だかイエス様が空気のような存在になってしまっているような・・。
そばに居るのはわかっているけれど、もっともっと追い求めようとはしない。
いつも御言葉に触れていたい・・と思えないのです。

そういう気持ちになれるようにと、祈り始めたのですが・・
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