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石ころ

「兄弟サウロ」

 今日の通読は使徒の働き8章から9章を読む。
聖霊に満たされて、まっすぐにイエスのことを語ったステパノを石で打ち殺した人々の仲間だったパウロ(サウロ)。それがその時のパウロの正義だった。なをもキリスト者を捕らえようとダマスコの途上にあるパウロは、イエスによって地に倒され自分の正義が誤っていることに気づかされ回心した。

そんな、パウロをアナニヤは主のことばに従って受け入れる。簡単に書かれているけれど、それは、ステパノを殺した仲間であり、イエスに従う人々を片っ端から捕らえる敵である。アナニヤの正義によると許せるような相手ではないだろう。

しかし、アナニヤは主に「行きなさい」といわれると、誰に相談することもなくすぐにパウロに会いに行き、「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(使徒9:17)と言ってパウロの目を開いた。

「兄弟」開口一番アナニヤはパウロをこう呼んだ。ひとことも非難することなく、疑うこともなくこう呼ぶことが出来るのは、主に従うことによってのみ出来ることだと思う。イエスが赦されているのに、私たちは自分の正義を振りかざしたい衝動を持っている。

アナニヤの内にある聖霊の働きを思う。イエスが兄弟とされたから「兄弟サウロ」だと、アナニヤがイエスに服従した言葉。敵であった者に大切な聖霊を分かち合うこともイエスの命に従順してである。それも時間をおかず即座に従った。自分のすべてを躊躇することなく抹殺して従うことの大切さを思った。

 唯一正しいお方、イエスに自分自身を有無を言わせず従わせることが、主の計画の実現のためにはとても重要なのだと。主は私たちに「兄弟」をお与えになる。そしてその教会を通して主の計画を実現なさる。その関係は、ただ神の意志だけがすべてであり、私たちには選ぶ権利はない。

誰であれ、どんな過去を持っている人であれ、主にあって「兄弟」とまっすぐに呼びかけて祈り、パウロが受けたように聖霊を分け合い、食べさせ、元気づけて成長させ、主のために備えるようにと。私は今まで「兄弟」という教会用語のような呼び方に馴染めなかったけれど、今日この「兄弟サウロ」にその言葉の深さを知った。

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