石ころ

誰を思って生きるのか



 「私だけが救われること」に責められて、教会を去って行かれた方のことを聞いたことがあった。それは違うと言ってあげたかった。その考えは人間中心から出ており、神様が中心のクリスチャンの考えではないと・・・。

「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至る。」(ローマ11:36)神に選ばれことから発し、救いを受け、そこから神の計画は動くのだから、信頼して悲しみも苦しみも葛藤をもお委ねして、主の働きを待ち望むべきと・・・。

 信仰生活は主が高くされるなら、どのような者であれ高く上げられなければならないし、主が低くされるときにはそこから落とされればよい。落ちてゆくところは必ず主の御手の中、そこで涙と共にゆっくりと主と交わればよいのだから。そこは誰も知らない甘美ななぐさめと交わりの場所。主の御手によって新しく造りかえられ、生まれ変われる所、少しもおそれるべき所ではないのだから。その神のご計画は人々の救いにむけても働くのだと思うから。

 この世で、その置かれた場所は主を知るための過程に過ぎないと思う。勝ち組といわれる者であっても、盲人がすべての動きを杖に頼るように、主により頼んで生きることには変わりがないはずであり、負け組とされている者には、それはもっと易しいことであろう。主の導きだけが常に最善であり、主は逆転の主でもある。

 ひとり一人主に依存して、神様のみこころを聞きつつ生きることが永遠に変わることのない幸いな人生であり、決して人と一緒に仲良く滅びの中に安住してはならない。それは、キリストが恥と苦痛の十字架を負いいのちを捨ててくださったのだから。神の御子が、あなたのためにこれほどのことをしてくださったのだから。何よりもそのことを一番に考えてほしい。


「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

石ころ
主に感謝いたします。

「愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12)
アーメンですね。
ラベンダー♪
石ころさん、ありがとう
拝読していて、すごく心に響いてきました。
自分に語られているようでした。


>落ちてゆくところは必ず主の御手の中

そうですよね。 恐れる必要はないのですよね。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事