長くなりましたので、こちらに書かせていただきます。そのことは、確かに霊に触れられた現れだとは分かりますが、気分が悪くなるだけで、交わりが存在しないのは最悪だと思います。聖霊はとても繊細で、個人的なお交わりに在る方ですから、残念な出会いだと思います。
三位一体の神である聖霊は、私たちのもっとも親しい方であり、私たちの霊のうちにおられ昼も夜も、良い時も悪い時もずっと共に居て下さり、すべてを良く知っていてくださる方です。それは、父なる神が妬まれるほどの関係です。それゆえ必要は自分で願えば良いのです。
「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。(ヤコブ4:5)
たとえばあなたに愛する子どもたちがいて、慈しんで育てている時に、他人がやって来て子どもたちの願いが伝えられたとしたら、あなたはとても悲しくなるでしょう。何時も側にいてハラハラと守り、細々と世話をしているのに、なぜ直接話してくれないのか・・と。
主は直接あなたの口からすべて願いを何時でも聞いて、味わい深い交わりの中で信頼関係を築き、願いを叶えることをどんなに待っていてくださるでしょう。
私たちが自分に必要なものをよく知らず、的外れな祈りや願いをしてしまっても、私たちを知り尽くす方は、誤りなく適切に必要を満たしてくださいます。その時「アーメン」と受けて喜ぶなら、お交わりが深まって行くのです。そこに主が働いていてくださることを悟るなら・・。
大切なことは主との個人的で親密な信頼関係を築くことです。その時、最も通じ合うのはみことばに関する質問や、疑問や、感動。時には戸惑いを伝え、怒りを聞いてもらい、感謝や、賛美の交わりになって行くのです。心の中にあるどんなことでも受け入れられ、主はその時を喜んでくださいます。詩篇の作者もそのようでしょう。
聖霊が臨在される私たちの霊のうちに、良く知らない人を立ち入らせることは危険です。主が喜ばれるわけが無いと思います。此処は主だけを迎える奥の間です。自分の口で「絶えず祈りなさい」気づくたびに祈りのお交わりにするのです。
短くていい、ありふれたことでも、ちょっとした感謝でも、不満でも、願いでも・・、そのすべての時が交わりになります。だってその時は、心が主に向いているからです。
「霊、魂、体を健やかにお守りください」と祈り、健やかな時は「感謝します!」と喜びを口に出して主を仰ぐ単純な祈りです。
あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)