石ころ

従順には祝福を不従順には懲らしめを ①(レビ記26章)

 

あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために彫像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。(1)

 

ご自分の民を愛される神は、民が偶像礼拝の罪のゆえに滅びることがないように警告された。これは後の、神に創られたすべての人に向けて告げられているのである。
「自分のために造るな」とは依頼されて作ったとしても、結局それは自分に何か見返りがあってのことで、自分のためなのである。

 

何の益にもならない物を神に反逆して造り、悪霊に住まわせおめおめと滅びの死に向かって行く、愚かさを止めよと言われる。創造主なる神を愛しキリストの愛に満たされて、永遠のいのちを得よと、滅びゆく者を惜しまれてのことである。

 

あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。(2)

 

創造主なる神を知り、自分自身が被造物であることを悟るとき、初めてすべてを弁えることが出来る。
神が遣わしてくださった救い主キリストの、一方的な愛を受けていることに気づき、神がキリストによって支払ってくださった代価は、私たちの現実にあまりにもそぐわなくて、恐れをもってひれ伏しみことばの従順によって安息するのである。

 

もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、
わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。
あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。(3~5)

 

神のことばはだけが、人を滅びることのないいのちに導く。主はご真実で全能の主ゆえに、季節が変わっても、時代が移ろうことがあっても、みことばに信頼する者にはすべての必要は満たされ、いかなる世の状況も御力を損なうことはない。

主はいのちの造り主であり、救い主であり、世に在る間も養う方であり、やがて永遠の御許に生かす方である。

 

また、わたしはその地に平和を与える。あなたがたはだれにも脅かされずに寝る。また、わたしは悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの地を行き巡ることはない。
あなたがたは敵を追い、彼らはあなたがたの前に剣で倒れる。(6~7)

 

神に従順する所には平和がある。それは時代に拠らず環境にも拠らず、みことばの剣の平和は、キリストに拠る神との平和の産物である。罪を覆われた所にある心からの平安である。
神は敵を用いる方でもあるが、神に在る者が敵に屈することはない。なぜなら神は、主に在る者の味方だからだ。

 

あなたがたの五人は百人を追い、百人は一万人を追う。あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。
わたしはあなたがたを顧み、多くの子を与えてあなたがたを増やし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。(8~9)

 

神が創造した命を守ることが出来るのは、天地の作者だからである。もっとも良い環境を与えることが出来るのも作者であり、また、人が取り返しがつかないほどに酷いものとしてしまった時、新しい住まいを準備することが出来るのも作者である神にある。

 

目の前の現れに目を奪われて、誰彼が悪い、何が間違っていると訴えても、人はそのすべてを初めから終わりまで知ることはなく、誰も未来に見る真実を知らない。

 

しかし、キリスト者は天地創造の神を知っており、みことばによって永遠を持っている。人が語るもっとも確かな言葉は、神のことばだけである。そうして、キリスト者はみことばの豊かさの中で、御国の望みに溢れて生きる。


      
わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。
わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。(11~12)

 

そう、今キリスト者のうちに住んでおられる。私たちのただ中に御住まいを・・。主はそれゆえに人のありのままをすべてご存じである。これほどの平安なことはない。御前で偽ることも取り繕うこともないのである。

 

神が嫌うことがないのは、キリストに在って罪を認められないからである。罪を犯さないのではなく、キリストによって過去、現在、未来の罪の代価が支払われているからである。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(ローマ4:7~8)

 

旧約聖書のこのみことばは、キリストの贖いの先取りであろう。神がご計画された時にみことばは成就している。なんと感謝だろう。罪の赦しがただキリスト信仰によるものであり、人のあれこれにはよらないことが良くわかる。

 

わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたを奴隷の身分から救い出すために、エジプトの地から導き出した。わたしは、あなたがたのくびきの横木を砕き、あなたがたが自立して歩めるようにした。(13)

 

イスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、神は彼らを、モーセによって多くの奇跡を行わせて導き出された。
今も、世は多くの物が命を取り囲み、世の権威を振りかざして奴隷のように支配している。

しかし主に拠って生きる者は、世の諸々から自立して生きることが出来る。飢えや貧困、病などなど・・世は死の恐怖によって引き回すが、キリスト者はすでに天に永遠の住まいを持っているのである。

 

奴隷のくびきを打ち砕いて解放してくださるためには、人の罪をあがなう罪の無いキリストの命が必要であった。完全に聖い方だけが、他人の罪をあがなうことが出来るからである。

 

神の愛は、歴史の上でキリストによって見ることが出来る。このことは神が、分かりやすい親子の愛の中で、御子をたまわるほどにあなたを愛していると、知らせておられるのだ。

創造主を悟らず、知ろうともしないままに、日々滅びの死に向かって進んで行く者に、「わたしに向きを変えよ」と語っておられるのである。ひとり子の命をもって・・。


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