石ころ

神の平和から迷い出るな(Ⅰペテロ3章)

 

「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。(10)

 

主に在る者の「悪口」「欺き」はみこころでないことを語って、神の子らを幸せな日々から迷い出させることである。
それは本当に神から発したことであるのか、それは何時、どのみことばによって命じられたことなのかが明示され、キリスト者によって吟味されなければならない。

 

黙示録の時代に向かっている今は、あらゆる悪や不法が世に蔓延る時、その悪とどのように対峙するべきかは、主に信頼する一人ひとりが日々みことばから導かれるべきことであり、リーダー任せにすることではなく個々の責任でもある。
キリスト者はみな祭司としての役割を負っている者なのである。

 

悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。(11)


 
悪と戦えとは命じられてなく「悪を離れて善を行い」とある。悪が最大限にまであふれる時代に向かって行く時、神がキリスト者に求めておられることは何であるのか。

善を行うとは純粋な神のことば福音を語ることであり、そこにある平和に留まることであり、みことばへの信頼と神の御力にあって安息することである。


  
しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。(黙示録2:24~25)

 

この世はサタンの支配にあり、サタンの裁かれる終わりの日が近づく時、そこに満ちる悪に心を奪われることはみこころではない。キリスト者の武器は神に信頼して、神のご計画の完成する望みを指し示し続けることである。

私たちの武器は、神との交わりであり祈りである。サタンが、キリスト者の心をかき乱すような悪をことさらに行わせるのは、そのことによってキリスト者を惑わすためでもある。
神の臨在を疑わせ、人の力によって人を相手に戦えとの誘惑である。キリスト者のなすべきことは、みことばにある永遠の平安の中で神に信頼し続けることである。

 

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(Ⅱ列王6:16~17)

 

サタンの嘲りに主は私たちを信頼して時を与え、私たちが主に在って動じないことを喜ばれる。神の良き計画はこの世でのことではなく、天に在るのである。
人は平和であっても、健康であっても必ず死ぬ者である。死が最悪なのではなくキリストを知らない死が最悪なのである。

 

主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」(12)

 

悪を裁くのは神である。悪に対してはキリスト者はすでに勝利している。ただ、キリストに留まり言葉と態度をもって、みことばの真実なことを語らない時に敗北するのだ。

 

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)


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