石ころ

いつ、どこ (ルカ17章)




ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)


「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)新改訳
「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(ルカ17:25)


イエス様は人の子となって私たちの間に住んでくださった。そうして十字架に人の罪をあがなって死んで葬られ、よみがえって天に昇られた。
そのことによって今、主は遍在の主として信じる者一人ひとりの内に住んでくださる。
私たちは御父と御子の交わりに迎えられ、聖霊によるみことばの解き明かしを聴いて主を味わうことが赦されている。此処での交わりこそ神の国である。

ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
人の子が現れる日にも、同じことが起こる。(ルカ17:26~30)
そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」(ルカ17:37)


 この世は必ず裁きの時を迎える。この地は死となりはげ鷹の集まる所となる。
しかし、神の国は日々の礼拝の中にすでに備えられてある。それはそのまま永遠に繋がっている。
ノアの洪水の前に箱舟は備えられていた。その中にいる者には洪水を恐れることはなかった。彼らが主にアーメンと言うなら、いつ、どこでと尋ねる必要はない。

何時でも御前に座って賛美を捧げみことばを直接味わう交わり、祈りは聖霊にあって絶えることはなく一日中続いており、働いていても、遊んでいても霊は主との交わりを楽しむことが出来る。眠っている間さえ帰るべき主の家に向かって歩いている。
再臨がいつであっても「アーメン」それは一分後でもかまわない。命終わる日が何時でもあっても「アーメン」である。
それはただ有限な体の問題に過ぎず、神の国の前味を知っている者にはこの世に惜しむものなど何も無い。

その日を恐れたり手を尽くして探り回る必要もなく、何時ものように迎えるだけである。それはゴールであり、晴れやかにテープを切って主に飛び込む日なのだから。真の花婿に見える日なのだから・・。目の涙を拭っていただく日なのだから。

神の国は肉の目に見えないけれど、霊に置いてはいつも見つめている。

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