ラバンは彼に言った。「私の願いをあなたがかなえてくれるなら──。あなたのおかげで主が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。」
さらに言った。「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」(27~28)
ヤコブが妻子を伴って去りたいとラバンに言ったとき、ラバンはヤコブを通して主の祝福を豊かに受けているにも関わらず「占いで知っている」などと言った。それはヤコブの働きを誤魔化してのことであろうが、彼は神の祝福を曖昧にしたのだ。
神の祝福を認めないことで人は貧しくなって行く。感謝もなく感動もしないということは、神との関係を無視することだからである。
「私が来る前は、あなたの財産はわずかでしたが、増えて多くなりました。私の行く先々で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私は自分の家を持てるのですか。」
彼は言った。「あなたに何をあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし私に次のことをしてくださるなら、私は再びあなたの群れを飼って守りましょう。(30~31)
神のうちに在る者には神がすべてを満たしてくださる。神を認めない者により頼む必要は無く、ヤコブはただ労働の報酬をわずかに求めた。神が祝福するヤコブを祝福することで、ラバンは神の祝福を得るからである。
私は今日、あなたの群れをみな見て回りましょう。その中から、ぶち毛と斑毛の羊をすべて、子羊の中では黒毛のものをすべて、やぎの中では斑毛とぶち毛のものを取り分けて、それらを私の報酬にしてください。
するとラバンは言った。「よろしい。あなたの言うとおりになればよいが。」(32~34)
ヤコブのものとなるやぎと子羊のすべてを、ラバンは息子に渡して遠くに隠した。しかし、ヤコブは黙って残ったラバンの羊たちの世話を続けた。
彼はすべてをご存じの主に委ねて、ラバンの卑劣な行いに目をぎらつかせて争ったり、訴えたりすることをしなかった。
ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剥いで、若枝の白いところをむき出しにし、
皮を剥いだ枝を、群れが水を飲みに来る水溜めの水ぶねの中に、群れと差し向かいに置いた。それで群れのやぎたちは、水を飲みに来たとき、さかりがついた。
こうして羊ややぎは枝の前で交尾し、縞毛、ぶち毛、斑毛のものを産んだ。(37~39)
神によって養われている者には神の備えがある。神は無限の富をもっておられるから、失ったものに執着する必要は無いのだ。ヤコブのものはゼロから始まったが・・。
神に信頼する者は、下着を取ろうとする者には上着も与え、不正な行いも甘んじて受ければ良い。神は侮られるようなお方ではないから、自分で戦う必要はないのである。
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)
ヤコブは神から示されたとおりにして、祝福による豊かな財産を得た。彼が主に信頼して、ラバンに対して間違わなかったからである。
このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった。(43)