石ころ

モーセのとりなし(出エジプト32章)

 

「今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」(10)

 

 神はイスラエルを、すべての民族の中から代えがたい愛をもって選び、御わざを行って奴隷状態のエジプトから救い出された。しかし彼らは経験した御力も、神への約束をもたった40日で忘れ、金の子牛を造って神に代え喜ぶ民であった。

 

モーセを用いて新しく子孫を増やすことは、神には簡単なことであろう。しかしモーセは喜ばなかった。彼がイスラエルのリーダーだったからである。

 

「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。」(12)

 

モーセは命をかけて神に嘆願している。神に御心を変えてくださいと訴えることが出来たのは、愛は恐れを知らないからであり、彼はみことばの「ご自身の民」という言葉によって執り成すことができたのである。

 

彼は、主がどれほどイスラエルを愛しておられるかを、エジプトを出るまでの御わざから悟っていた。許すための理由を提示して、忍耐してくださいと求めたのである。

 

あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。(13~14)

 

御約束はモーセから出る者に対してではなかったので、モーセの説得は理路整然としていた。ただ、約束の民はあまりにも堕落していたが・・、神の初めの御約束には、選びの民を変更するための但し書きは無いのだ。

それゆえ神は彼らの子孫に憐みをかけ、彼らが御子をも拒絶してなをイスラエルに憐みをかけて、救いの計画を備えておられる。

 

怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。(イザヤ54:8)

 

 異邦人であるキリスト者は、キリストによって絶えず神に執り成されている。「その罪は、すでにわたしが十字架で負いました。それゆえ無罪です。」と弁護してくださっている。

 

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)

 

何という恵みであろう。何という平安であろう。何という特権であろう。それゆえ後顧の憂いなく、みことばに従順することが出来るのである。

 

 モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。
その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。(15~16)

 

神の筆跡!神が準備してくださったさとしの板とは、どれほど貴重なものであろう。それは如何なる価値であろう。どれほどに尊いものであろう。しかし、聖なる神の筆跡を受けるには、民はまったくふさわしくなかった。

 

神がてづから記されたさとしを受けても、恐れをもって尊び、従順するのでなければ意味はない。聖なるさとしの板と金の子牛を並べるような者は、神を侮辱していることにさえ気付かないだろう。

 

 キリストの十字架のあがないである福音を受けた時、私たちは相応しくないままであり、ただ、愛の神にすべてを信頼して、あがなわれたままの自分を御前に置いたのである。
神の直筆より尊い、ことばなるイエスを迎えて生きるとき、主に似た者へと育ててくださる聖霊の助けにより頼んでのことである。


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