イエスさまが聖霊によって、処女マリヤに来てくださった時が、神様の決められたとおりであることは疑いもない。月満ちてイエスさまが旅の途中の家畜小屋でお生まれになったことも、そのまま神様のご計画であった。
それは、実際に子を産んだ経験のある者から見れば、最悪のタイミングである。しかしそれがみこころであったのだ。
主に完全に従順したマリヤとヨセフ、そうしてひとり子イエスさまに、神さまが準備されたことであった。
後にイエスさまは「わたしには枕する所もない。」と言われているが、それが父なる神さまの御子に対する備えであった。
イエスさまに集まる人々は決して楽しい人々ではなかったと思う。彼らは誰も彼も傷つき罪にあえいでいる人々。あるいはおごり高ぶりイエスさまを陥れることばかり考えてい者たちであった。
お弟子たちもイエスさまの忍耐の内にあって育てられた者であって、とんちんかんでかなり世的な普通の人であった。
聖書にはイエスさまの笑っておられる場面はない。イエスさまの楽しそうな記述はない。罪人との宴会がイエスさまにとって楽しいはずもない。
イエスさまは、世で涙を流し、血の汗をしたたらせて祈られた。
「いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。」というお言葉はとても重く心に残る。不信仰に対する主の忍耐は極限であったのだろう。
神さまは愛するひとり子のイエスさまに、これほどに過酷な環境を備えられた。イエスさまは、現在、過去、未来に生きるすべての人の苦しみを知り尽くしてくださった。
誰よりも理解されず、孤独であり、裏切られ、ののしられ、嘲られ、辱めの中で理不尽に殺されなければならなかった。
十字架を負って殉教された先人のことを少し聞いているけれど、彼らとイエスさまの十字架との決定的な違いは、イエスさまはこの世の誰も経験したことのない、恐ろしい孤独を知っておられるのである。唯一より頼む父なる神様にさえ、十字架において捨てられたのだから。
今、信仰によってイエスさまの御足跡を歩む者には、イエスさまが常に共に居てくださっている。決して孤児にはなさないという御約束があるのだから。
私たちは御子が、人のすべての最悪を負ってくださったことによって、今、父なる神さまの愛を日々味わっている。
御子の打ち傷によって癒され、もう、すべての理不尽はあがなわれており、世のいのちをも賜っている。
私たちはこれだけの代価を支払われた者なのである。それゆえ、誰であっても御子にあっては高価で貴い。イエスさまを忘れないで、どんなときでも自分の価値を覚えていたい。見たことも聞いたこともない平安の中に、主のみことばを聴きつつ住んでいなければならない。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(ヨハネ6:51)
イエスさまが知っていてくださる世を、日々いのちを頂いて今年も生きて行こう。
たとえどのような最悪を見ることになろうとも、御子が経験された以上のものはないのだから・・。
「平安があなたがたにあるように」
ハレルヤ!主よ。感謝します!
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:10)
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