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石ころ

居場所

この間息子とちょっと議論になった。
創世記4章、カインとアベルの兄弟の捧げ物の箇所。
彼は、「カインはアベルをねたんだということは、それだけ神を愛していたということではないのか、聖書にも、『冷たくもなく、熱くもないよりは、冷たいか、熱いかであってほしい。』って書いてあったろう」と言った。私はそれはちょっと違うと思うと・・。

「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」
主はアベルの行為とその捧げ物とに目をとめられた、ということだと思う。捧げ物だけを見られたわけではなくアベル自身をも見ておられた。

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」

主はカインに、正しいことは何かと教えておられ、自分自身の罪を治めなさいと言われた。謙遜になりなさいと・・。でも、カインは自分の罪を治めることなどできなかった。このことには人のどうしようもない罪の深さ、その罪の性質がのぞいてみえる。十字架であがなって頂くほかどうしようもない、自分では治められない罪を持ってしまった者の悲哀・・。

カインの神様への愛が本当にねたむほどのものであったなら、そのことをもって神様はカインを見られただろう。でも人は、愛していなくても自己中心からねたむ者なのだから・・。
しかし、主はカインを「命には命」とは裁かれずに守ってくださったことから、カインの中に幾らかの主の愛を慕う思いを酌まれたからなのかもしれないと思う・・。

もっとも大切なことは、主が私に何を望んでおられるのかをわきまえ知ること。これは「カインとアベルのどちらが神の愛を勝ち取るか」という競争の物語ではないということだと思う。
ねたむ必要もなく、ねたまれることを恐れてもいけない。恐れないで主が立てられたところに着くことはとても大切なこと。自分で自分の価値を決めないで、人と比べて決めないで、すべて神のみこころに委ねることこそが救われた者居るべき場所だと思うから。

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