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石ころ

問題

 みことばを開き、祈り、今日はどうしても解決を得るまで此処から立ち上がれない問題を抱えている。
みことばと祈りによって、主にあって解決しなければならないこの世の問題。
みことばに従順するには、愚かにならなければならない。私は賢くはないけれど、少しの知恵があり、人の考えていることや企みが少しは分かったりする。
だから、その少しばかりの知恵をかなぐり捨てて、さっぱりとみことばに従順するには、ちょっとした格闘が必要になる。
主との遣り取りが必要になる。私の中途半端な愚かさのゆえに・・、中途半端な信仰のゆえに・・。

賢さよりも愚かさが、得をすることよりも損をすることの方が、十字架に近いような気がする。なによりも、みことばに従うには愚かでないと従えないときがある。損を覚悟でないと従えないことがある。

何を愛しているのかと問われる。「主よ。あなたです。」と答えるなら、捨てるべきものが何であるのか答えは自然に決まった。

 正しく裁かれるお方にすべてをお任せしよう。そう決めたとき、私はやっかいな問題から解放された。
どんなことでもすべては主と私自身の問題。誰の所為でもない。誰がどんなに悪かろうがそんなことはどうだってよい。主は生きておられる。そのことを私が信じるかどうかということ。
そうして、すべての問題を通して私は主の導きの中におり、すべては主への応答になるということ。
腹を括って聖書を閉じ、祈りの場を立った。

 今までは、信仰を通して本当に多くを得た。これからは少しばかり成長して、失って行くことを、信仰の中で経験をしてゆくのかな・・などと思いをめぐらせていたけれど、なんとその後、次々と受ける事が続いて、「アラ、アラ、まだまだ私はイエスさまから見たら赤ちゃんみたいな者だった・・」と、私はちょっと微妙・・。
 
  
主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔の覆いをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:17.18

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