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石ころ

水の上を歩く

 火曜日の人とみことばを共に開くとき、私が初めて気づかされることがいろいろとある。
彼女がよく感動されるので私も触発されるのかもしれない。

今日は、マタイ14章後半。イエスさまについて行った群衆を、イエスさまは飢えさせなさらなかった。信仰の中身を問うこともなく平等に十分に養われた。このことの主の豊かさ!それも、この世のもの、信仰者の小さな小さな捧げ物(でも、捧げた少年にはすべてだった)を主が祝福されると、それはどんなにでも大きなものとなり、無限と思えるほどの、多くの人を養うことができる。
主が共にいてくださる時、私たちはすべてに飢えることはない。愛にも食べ物にも着物にも、すべての必要は満たされる。


 弟子たちは、暗闇の嵐の湖で波と戦って疲労困憊し、水の上を歩いて来られたイエスさまを幽霊だとおびえてしまった。私にはこのことはとても良くわかる。
だって、イエスさまと一緒なら何も恐くはなく、いつも平安があるけれど、世の荒波、吹き付ける風ばかりを見ていると、混乱しておびえるようになってしまう。まだ何も起こっていない将来を悲観したり、人の顔色を伺って自由を失ったり、枯れ尾花さえも幽霊だと恐れてしまう。ここに脅しがあり、すべての宗教が入り込むのだと思う。
でも、イエスさまにしか平安はない。十字架にしか解決はないから。

 ペテロは、今までとはまったく状況は変わらない嵐の暗闇の中で、イエスさまの御声を聞いただけで勇気百倍になってしまった。それがイエスさま!それこそ信仰。
ペテロは即座に挑戦して「水の上を歩かせてください」と願った。そうして、事実嵐の湖の上を歩く経験をした。舟から、暗闇の荒れ狂う水に降り立つペテロを想うとき、信仰の無限の力をうらやましくも感じる。

彼は結局風を見てしまって失敗をするけれど、主は御手を伸べてつかんでくださる。必ず主はつかんでくださるお方。倒れても、沈みそうになっても恐れることはない。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そんなお言葉も叱責というよりも、憐れみに感じてしまう。だって、誰でも人は信仰の薄い者、そんなことを主はとっくにご存じだから・・。信仰さえも主から頂くものだから。

見ていた弟子たちの「確かにあなたは神の子です。」という告白と、実際にイエスさまの力強い手でつかまれたペテロの告白とは違うだろう。聖書から得ただけの知識と、人の証を聞いただけの知識と、失敗をしながらも自分自身で実際に体験したイエスさま経験とでは違うと思う。
イエスさまは、付いて行く時、誰にでも満腹するばかりに必要を満たしてくださるお方だから、ペテロのように、その御声に我を忘れるほどの喜びをもって応答したいと願った。

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