石ころ

「居ても良いんだよ」



 秋葉原の事件を人ごとと思えず、「なぜ?」と問い続けていた。故もなく凶刃に命を奪われた方々のことを知るにつけ、その理不尽さに言葉もない。犯人に対して憤ってみてもなぜか心が落ち着かず、「なぜ?」という思いに至るばかり。

 行き詰まった社会の仕組みの問題もいくらか分かるけれど、やはり、犯人はとても大きな、とんでもない勘違いをしていると思う。彼が職場を転々としたことはテレビで知る限り自分から辞めたようであり、最後の会社も自分から辞めているのであって、契約が切れて辞めざるを得なかったわけではない。彼は、正社員でさえあれば居心地の良い安定した職場が与えられると勘違いをしていたのかもしれない。

 次男は正社員だけれど、会社が急激な事業の拡張によって職場に大規模な移動があった時、仕事を研修の人たちに取り上げられ、職場で失業してしまい数日間ただ耐えるだけの日々を過ごしたことがあった。聴覚障害を持っているということもあって、コミュニケーションが上手くいかなかったのだと思うが、会社が大きな岐路にあるような時には、そんなことは誰にでもありうることかもしれない。

辛い時間を過ごしていることを週末に帰ってきて聞いたとき、私は胸がいっぱいになった。主に祈るという脱出の道があることは本当に大きな助けであった。長男の助言で「とにかく上司にきちんと説明をしてもらうこと」にして、次男は私の前では平静を装って会社に戻っていった。そのときの次男の一番の気がかりは「会社に私が居ても良いのだろうか、本当に給料だけの仕事をしているのだろうか」だった。

私は「もし、あなたの人格が否定されるような状態だったら辞めても良いよ。でも、よく考えてみてね、あの会社に入れたのはどう考えてもあなたの力だけではないと思うよ。受験も、入社試験のときもすべてのことを通して、ずっと神様の導きがあったとしか思えないでしょう。だから、神様が置かれたところならそこに居るべきだと思う。もし、会社から辞めるように言われたのなら、それはそれでしがみつく必要はなく、ちゃんと次の導きがあると思うけれど・・」と信じるままに話した。

 彼は上司から会社や職場の現状を説明していただき、「仕事は自分で探してやってください」と言われたという。それも決して簡単なことではない辛いことだけれど、話を聞くことによって、「・・・やってください」という言葉を得た。それは「居ても良い」ということである。針のむしろに座るような思いをして成長することもある。「どうか働かせてください。」と我慢をして頑張らなければならないときだってある。

「働くと言うことは、自分がいかに駄目な者かを見続けること。」こんな言葉を聞いたことがあった。働くことは辛いのは当たり前だけど、若者が「居ても良いんだよ」この言葉が聞けることを願わずにはいられない。

 
「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)

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