死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(7)
他の神々に仕える罪を犯した者を死刑に処さなければならない時、初めに石を投げるのは証言者である。それは罪を取り除くための神の命令であった。
此処で、姦淫の女が捕らえられイエスの前に引き出されて来た時の、イエスのことばを思い出す。
姦淫の場で捕らえた女を引きたて来た宗教家たちは、イエスに裁きを求めるがイエスは無言であった。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
この時、イエスの言葉を聞いて年長者から去って行った。このことは彼らの正しさであり、彼らには自らの罪を教える律法が在ったからであろう。もし、この女を見張って動かなかったら、それは彼らが罪に縛られて自由を失っているのである。
イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
無罪と宣言できるのは、イエスが十字架でその罪をも引き受けてくださるからである。
罪の証言者となり、初めに石を投げる役目を誰が負いたいであろう。イエスがその役割から解放してくださったのだ。
それでも今も罪を見たとき、特にそれがみことばに逆らうと考えられるとき、神の家族として心が騒ぐ問題に直面するが、聖霊に教えられたみことばを語って主にお任せすることができる。今はキリストに在って、石を打つことを命じられてはいないからである。
神は侮られるようなお方では無いから、平安のうちに主にお任せすることが出来る。みことばを捻じ曲げる言葉が残るわけはないからである。
しかし、神のキリストがその罪を負われたなら、その人の信仰によってもう聖いのである。十字架で完了した罪をもう一度裁くことは誰にも出来ない。主ご自身がこう言われた。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25)
裁きの権利がただ主あることを認めるとき、その罪について石を投げる責任はなく忘れ去っても良いのだ。それは本当に恵みである。
罪の恐ろしさは死ぬ本人には勿論であるが、石を投げて殺す役割も痛みを覚えすにはおれないのである。
あなたたちは肉によって裁きますが、わたしはだれをも裁きません。(ヨハネ8:15)
何時までも罪を見張って握りしめていると、正しくも無い私たちにサタンの足台を準備することになる。
立ち去って良いのである。今日成すべきこと、居るべき新しい場所に主が導いてくださる。どんな時もキリスト者の居場所はキリストのうちにあり、キリストの平安に住む者である。
わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(黙示3:11)