見出し画像

石ころ

信じることができますように

 今日は日本の梅雨らしい、むぅっと蒸せるような暑さ。そして、私は最高血圧81・・あり得ない。こんな天候には特につらい。しかし、頭は痛いけれどこの間のようにはしんどくない。数字と実際の気分の悪さとは必ずしも比例しないとわかった。数字をあまり気にしないようにしよう。血圧なんて、ある瞬間の状態を捉えたのに過ぎないのだろうから。

 昨日次男とヨハネ9章を読んだ。ふたりで癒された盲人の試練と成長を考えた。
彼は、自分からイエスさまに癒しを求めることさえできないような者だった。一方的なイエスさまの憐れみによってすべては始まった。

彼はイエスさまにされるままに身を任せて目に泥を塗ってもらった。「顔に泥を塗る」という言葉があるが、誰だって泥を塗られて喜ぶことはない。彼が後に泥を塗られたと告白しているが、見えない目でどうして塗られた物が泥であると分かったのだろう。きっと、近くにいる人たちのあざけりでそのことを知ったのだろう。

彼は言われるままにシロアムに向かって、泥を塗られた顔のままで歩いて行った。たぶん、嗤われながら・・。
彼はなぜ従ったのだろう。なぜ信じたのだろう。彼にはイエスさまにすがりつくより他に、人生になんの希望もなかった。このまま死ぬまでものごい。その事実に真正面から向き合い、イエスさまの憐れみに出会ったその瞬間の「救い」に、彼はすべてを賭けてシロアムに向かったのだろう。

 時に何もできないと言うことが祝福の入り口になる、あれこれと手段があるとき、片手で祈り、片手で次の手段を準備していて、「あなたの信じたとおりになるように」と言われてしまったら・・・。弱さの中に完全に働く主なのだから。

 彼は素晴らしい成長をしてゆく、繰り返し「なぜ見えるようになったのか」という同じ質問をされながら、今まで恐れていた人々の愚かさ、事実を語ることの強さに気づいていったのだろう。彼は真っ直ぐな心で、ねじ曲がった者に立ち向かって行くことで成長していった。神のなさったわざをねじ曲げようとたくらむその愚かさに、彼は指導者をたちを恐れることはなくなった。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
これ以上に強い言葉はない。だから主は、主に飛び込むときに私たちに経験与えてくださる。
「あの方が目に泥を塗ってくださって、私が洗いました」「あの方がチャンスを下さって、私が従って掴み取りました」「私は今見えるのです」「私はあの方を経験したのです」彼の誇りや喜びが手に取るようにわかる。

彼は尋問で、イエスさまのことを「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は経験をしたことだけを語っている。でも、これ以上の証言はない。

コミュニティーを追放された彼を、イエスさまが探し出してくださったとき、
「あなたは人の子を信じますか。」とのおことばに対して、「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
彼は癒しを体験をしただけで、イエスさまを知っているなどとは思っていなかった。彼の謙遜な言葉は胸を打つ。

 
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事