自分の物ではなく、弟アベルの捧げ物が神様に受け入れられたのを見て、カインはアベル殺した。神様がアベルだけを愛されたと思えたからであろう。人類最初の骨肉の争いは、愛の渇きから始まったのだ。
「神は愛」この中にすべての愛は包含されている。神様の元を離れてから人はすべての愛に飢えている。人の行う良いことも悪いことも、その代償であることが多い。
「これで私を愛してくれますか」また、「愛してくれないから・・」と叫んでいるのだ。無意識だろうけれど・・。
神様は、ご自身の愛を人の歴史にとても分かり易く現してくださった。御子イエス・キリストの十字架である。人が愛の完全な満足を、そこで得られるように備えてくださったのだ。
御子による十字架のあがないを、個人的に私の救いと確信する時、神に愛されていることが分かるのである。
ただ、クリスチャンであっても個人的な確信には拠らず、単なる知識ならその心はなを飢えており、アベルを殺したくなるのである。
あれこれと理屈をつけて、「愛される資格はない」とささやく敵の声に耳を貸してはならない。イエスの十字架によって、自分の身に何が起こったのかを知ることが必要である。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:38)
イエスさまが十字架で成し遂げてくださった救い。私の十字架さえも完成してくださった主に拠って、今はすべてが充足し満ち足りているのである。その備えの中で主に付いて行くのである。
「あなたは何処にいるのか」と問われた時、
それが眠っているときであっても、起きているときであっても、
働いていても、遊んでいても、
神様に、またサタンにも、
「私は主の愛のうちに居ます」と即答する。
十字架のあがないを受けた者は皆こう言う。
「愛されていますか」
「はい。天地創造の神が御子を十字架にかけるほどに・・。」
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30)
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