石ころ

まこさんへ



コメントに対して、今、教わったことを書かせて頂きます。
聖霊に拠らなければわからないことが、先に知ってしまった者には時に苛立たしく、苦しくて忍耐が要ることがありますね。

「自分の十字架を負う」ことに関して、行いにおいてはすでにイエスさまが完了してくださったのですが、
このことを負うのが人の十字架なのかも・・と気付きました。

主の忍耐を共にして、絶えず祈り、チャンスを備えてくださる主に期待して待つ事。
聖霊に拠ることだけれど、それでも間違いを指摘したり、諫めたり、時には共感して、主の寛容の中にあって寄り添っていること・・なのだと。

私がいつも主に忍耐して頂いているように・・。
このことも、主に拠らなければできないのですが・・。
 

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コメント一覧

ムベ
まこさん、御交わりありがとう
主にそこまで連れて来られる必要があるのだと思います。
アーメン

まことにその通りですね。
分かち合いを楽しませていただいて感謝です。
みことばは何重にも重さねられた、宝探しみたいですね。
見つけた時の喜びは何にも変えられません。

あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選び・・
すべてのことが神から発し、神によって成り神に至る。

すべては神の御旨のままに・・。
その中で、ちょっとばかり何かをさせてくださるのでしょう。
私たちが機嫌良く、主を喜んで生きるために・・。
感謝です。
まこ
ムベさん、今、この記事に気がつきました。(読ませていただきました。)
私もムベさんのコメントを読んで、同じ御言葉から気付きを与えられました。
全く違う種類の気付きでした。
主は色々と御言葉から味わわせてくださるのですね。
そして、こうして、お交わりを通して、気付き合えるのは幸いなことですね。
確かに、ムベさんが仰るように、先に聖霊によって主の世界を見せられた者は、そこに目が塞がれている者が色々葛藤している姿がもどかしく感じたりしますね。
でも、全てを握っておられる主の御手を見るならば、それさえも主のご支配の中にあることを知って安息できるのですよね。
さて、私が気付かされたこととは、自分の十字架を負うとは、完全に自己に絶望することによって、自己の働きに頼ることをストップし、言い換えれば自己に死に、自己の終焉を迎え、復活したイエス様の命にて生きることを指すのだと思ったのです。
自力に頼ることを止められるのは、主によって、完全に自分の無力を悟らされるところに追い込まれた時なのですから、自分に死ぬのは、自分で為すことではなく、主にそこまで連れて来られる必要があるのだと思います。

長々、すみません。

私もブログを書いてます。良かったら、遊びに来てくださいませ。
http://yaplog.jp/kekasih/
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