石ころ

汚れた交渉(創世記19章)

 

その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。
そして言った。「ご主人がた。どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、私たちは広場に泊まろう。」(1~2)

 

ロトは訪れた人を強いて家に迎え入れた。この町が広場で休めるような所ではなかったからである。しかし、ロトは彼らをどのような方と理解して伏し拝んだのだろう。神の権威を持つ方を礼拝したのなら、なぜ守らなければならないと思うのだろう。

 

彼らが床につかないうちに、その町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで、その家を取り囲んだ。すべての人が町の隅々からやって来た。
そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」


ロトは戸口にいる彼らのところへ出て行き、自分の背後の戸を閉めた。
そして言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」(4~8)

 

無法者が押し寄せたとき、ロトは客を守ろうとして娘を差し出すと交渉している。犠牲的な信仰のように見えるが、ロトが神を全く知らないことを露呈している。このような犠牲は神の最も嫌われることである。こういうことを思いつくのは神を知らないからである。

 

私たちが家族を守ることはみこころに叶うことである。その方法は、すべての時に主に信頼して、聴いたみことばに従順することによる。
生きて働かれる主に拠らなければ、真に家族を守ることはできない。私たちはみな弱く愚かだからである。

今も主はいけにえを喜ばれず、誰の犠牲もみこころではない。あがないは子羊イエスによって完了されている。この世の問題は、生きて働かれる神のご真実を家族で経験する時である。

 

私たちが家族を無条件に差し出すのは、創造主なる神だけである。母よりも深く愛して、御子のいのちをもって買い取ってくださったお方だからである。

また、そのような神の愛を経験している者は、みこころから家族を庇うような愚かなこともしない。御前に差し出して主に託し、自分のなすべきことに真っ直ぐに進んで行くようになる。

 

すると、あの人たちが手を伸ばして、ロトを自分たちのいる家の中に引き入れて、戸を閉めた。
家の戸口にいた者たちは、小さい者から大きい者まで目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけようとする力も萎えた。(10~11)

 

アブラハムが「正しい人が10人いたら・・」と町の救いを神に求めたソドムは、その10人さえいない無法の町であった。

 

私たちは、この場所を滅ぼそうとしています。彼らの叫びが主の前に大きいので、主はこの町を滅ぼそうと、私たちを遣わされたのです。」
夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」
彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人たちは彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。(13~16)

 

御使いはロトの家族を救うために、グズグズしている家族の手を引いて滅びから逃してくれた。それはアブラハムのゆえにある神の憐みである。
私も祈られる中で神の愛と忍耐によって、このような御救いに与った者である。

 

彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」
 ロトは彼らに言った。「主よ、どうか、そんなことになりませんように。(17~18)

 

一息ついたロトは、示された山へ走ることをためらって、御使いに交渉している。
このことはアブラハムがソドムを救うために、神に交渉したことと似ているようだが、まるで違う。ロトは聞いた言葉に真っ直ぐに走ることをせず、自分の身を案じて楽な方を選ぶための交渉をしたのだ。

 

ご覧ください。あそこの町は逃れるのに近く、しかもあんなに小さい町です。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを受け入れ、あなたの言うあの町を滅ぼさない。
急いであそこへ逃れなさい。あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
太陽が地の上に昇り、ロトはツォアルに着いた。(20~23)

 

このことは、ロトの妻が後ろを振り向いて石の柱になったことと相通じる。彼らは、みことばを恐れて、従順する生き方をして来なかった。信仰に拠る行動は日常の中にあり、一瞬の判断が分ける携挙にもそれは現れるだろう。

 

そのとき、主は硫黄と火を、天から、主のもとからソドムとゴモラの上に降らせられた。
こうして主は、これらの町々と低地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされた。
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(24~26)

 

しかし、神はソドムの人々をも滅ぼすことを避けようと、アブラハムの執り成しを備えて生かそうとされた。
今はキリストの執り成しの中で、世に生きる人々を愛し忍耐してくださり、キリストに身を避ける人を待っていてくださる。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)


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