石ころ

人とは何ものなのでしょう②(ヘブル2章)

 

「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。(7~8)


神さまはアダムにすべてのものの支配を委ねられた。なのに未だそれは成っていない。むしろ、それらに支配され拝みひれ伏す対象とさえすることがある。


ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9)


聖書は世界のベストセラーであり、イエス・キリストの名は世界中で知られ、十字架によって死なれたことは歴史に記されている。
イエスさまは私たちのために苦しみを通って、神の御計画を成し遂げ、栄光の冠をお受けなった。


神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(10)


神さまは御子を多くの苦しみを通らせるほどに、人を愛して栄光に導いてくださった。
万物の存在の目的は御子にあり、存在の原因であるキリストが、苦難を通られることが相応しいほどの人とは、一体何ものか・・。震えるほどの価値を着せられたのはキリスト者である。


聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方(一つの源)から出ています。それゆえイエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ、わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。(11~13)新改訳2017


聖としてくださったキリストも、聖とされた私たちも、神さまのご愛の故に一つなのだ。イエスさまは長子として、私たちを神の家族として迎え入れて、兄弟と呼んでくださる。
被造物が創造者の家族となることは、なんとあり得ないことだろう・・すべてはキリストのいのちを賜ったゆえである。
それゆえ救われた者の賛美は、世の良い時も悪い時も絶えることはなく喜びは心の中に満ちている。


そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(14~15)


神であるイエスさまが人となって世に来てくださり、人を愛して仕えてくださり、父なる神さまの救いの御計画に従って、すべての人の罪をあがなってくださった。
その事実により、サタンの持ち込んだ罪の呪いから私たちを解放し、永遠の神の家に連れ戻してくださった。


主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(18)


イエスさまは命を与えるほどに愛した弟子に見捨てられ、奴隷と同じ値段で売られ、選びの民に拒絶され、罪人の身代わりに罰を負われてムチ打たれ、ありもしない罪状で死刑に処せられ、身代わりに負った罪ゆえに、唯一の理解者である御父にまで捨てられた。


御体にムチ打たれ、釘づけられ、突き刺され、痛みと屈辱と孤独を、どんな人も味わったことのないほどに経験してくださった。それが御子の御父への従順であり、人への愛の現れである。


主のお苦しみのすべてがキリスト者の人生に救いとなり、慰めとなり、拠り所となっている。私たちが世で経験するすべての悲劇を主は経験していてくださり、心と体の痛みも、世の孤独も、通わぬ言葉の悲しみも知っていてくださるからである。


どんなに理不尽な仕打ちに出会っても、イエスさまを思い出すなら慰めと安らぎを得る。その時、それは「イエスさまほどのことはなかった」と知るからである。
すべての殉教者も、死の淵でイエスさまの十字架に在る慰めを経験していただろう。


苦しみの時、イエスさまは「あなたの気持ちは、わたしも経験して知っている。」と寄り添ってくださるが、「私は自分の罪が在ってのことです」という告白に、主は「何のことか知らない」と言ってくださる。


なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)


主の十字架は完全で、神の義をたまわってすべてが新しくされ、罪のあがないは完了しているからである。
悔い改めた者は過去に留まらず、新しく生まれた者は「アーメン」とあがないを頂いて、御名をほめたたえ喜びにあふれ、みこころに耳を澄ませるのである。


愛の無い者が神の愛に生かされ、神の愛を語り告げるようになり、義のない者が神の義を着せられて、置かれた所に在る。キリスト者とはそういう者である。



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