あなたがたのところに来る人で、この教えを(イエス・キリストが人として来られたこと)
持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(10~11)
福音をあいまいにする者を近づけてはいけない。神であり、人である、キリストの完全をぼかす言葉を受け入れてはいけない。
サタンがサタンらしい姿なら誰も惑わされない。エバがそうであったように、惑わしはいつもあいまいの中に入り込むのだ。みことばを明確に語らないのは、不信仰から出たことである。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)
わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。(ガラテヤ5:9)
私たちがみことばを正確に知っているなら、真実と嘘と見分けることができる。わずかな嘘が見分けられないと、嘘の持っている都合の良い見栄えによって、その性質が全体を汚染するからである。
アナニヤとサッピラは、それまでの教会の純粋な行いに、嘘というパン種を持ち込んで変質させようとしたから取り除かれたのである。
あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。
選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。(12~13)
ヨハネもパウロも、キリストの温かな血の通った救いのことばを、交わりの中で語りたかっただろう。顔と顔を合わせ手と手を取って、福音の喜びを分かち合いたかったのだろう。
なんだかとてもよくわかる・・、筆と墨では伝わらないもどかしさも淋しさもあるのだ。