主はモーセにこう告げられた。
「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親のもとに置いておく。八日目以後、それは主への食物のささげ物として受け入れられる。」(26~27)
主への捧げものは屠られていなければならない。生まれつきの命のままで献げるなら、主の祭壇を踏み荒らして汚すだろう。
どれほど優れた人であっても、持って生まれたままのものを神に捧げることは出来ない。
それは聖さにおいて欠けのあるものだからである。霊において十字架の死をキリストに抱かれて通り、聖霊によって新しく生み育てられて、捧げものとなる。
牛でも羊でも、それをその子と同じ日に屠ってはならない。(28)
私たちのうちから出て来るものを、主の故に屠って死に渡すとき、キリストの心は痛む。
人の心をすべてを知っておられる主は、その望みを血潮に洗いきよめて、御手のうちに養い育て、時にかなって実現してくださる。このことは信仰生活の中で何度も経験することである。
屠られた希望が確かに主のもとに届いていたからである。
主に感謝のいけにえを献げるときは、あなたがたが受け入れられるように、それを献げなければならない。(29)
「あなたがたが受け入れられるように捧げなければならない」のである。捧げる者の思い付きや都合で捧げるのではなく、人間関係に配慮したものでもなく、それは主が求めておられるものでなければならない。
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。(黙2:17)
みことばのマナは日ごとに新しく、聖書は生涯読み続けても、導く聖霊は日々に新しいことを聴かせて、飽きることは無い。誰もこの世で主が与えようと備えておられる、恵みのすべてを得ることはないほどに・・。
昨日聞いた言葉は、成長の中でそれを成し遂げさせて、今日には相応しくなくなるからである。
捧げる感謝にも色々な感謝があり、主に献げる感謝は世の感謝とは違って、みこころが成る喜びから出た感謝であり、聖霊の臨在から溢れ出る感謝である。最上の感謝は、
パウロとシラスが鞭の痛みのうちに、牢で賛美した感謝であり、使徒たちがキリストの弟子ゆえに、辱めの鞭を受けて喜んだ感謝もある。それらは命を捧げるまでの感謝である。
キリスト者が絶え間なく捧げる感謝は、キリストの十字架の感謝である。それは、いかなる理不尽や嘆きをも呑み込んで、主に在る者に、どんな時も喜びを満たす力の源である。
イエスのもとで目覚めていよう。そうすれば私たちの罪は眠りにつく
彼の悲しみは私を喜びで満たす。
私の死を彼のたましいの苦難があがない、彼の死の悲しみは私を喜びで満たす。
彼の誉ある受難は、どれほど苦しくとも甘美なるものなのだ。(マタイ受難曲より)