石ころ

神の聖さを悟るために ④(レビ記22章)

 

主はモーセにこう告げられた。
「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親のもとに置いておく。八日目以後、それは主への食物のささげ物として受け入れられる。」(26~27)


                                                             
主への捧げものは屠られていなければならない。生まれつきの命のままで献げるなら、主の祭壇を踏み荒らして汚すだろう。
どれほど優れた人であっても、持って生まれたままのものを神に捧げることは出来ない。

それは聖さにおいて欠けのあるものだからである。霊において十字架の死をキリストに抱かれて通り、聖霊によって新しく生み育てられて、捧げものとなる。

 

牛でも羊でも、それをその子と同じ日に屠ってはならない。(28)

 

私たちのうちから出て来るものを、主の故に屠って死に渡すとき、キリストの心は痛む。
人の心をすべてを知っておられる主は、その望みを血潮に洗いきよめて、御手のうちに養い育て、時にかなって実現してくださる。このことは信仰生活の中で何度も経験することである。
屠られた希望が確かに主のもとに届いていたからである。

 

主に感謝のいけにえを献げるときは、あなたがたが受け入れられるように、それを献げなければならない。(29)

 

「あなたがたが受け入れられるように捧げなければならない」のである。捧げる者の思い付きや都合で捧げるのではなく、人間関係に配慮したものでもなく、それは主が求めておられるものでなければならない。

 

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。(黙2:17)

 

みことばのマナは日ごとに新しく、聖書は生涯読み続けても、導く聖霊は日々に新しいことを聴かせて、飽きることは無い。誰もこの世で主が与えようと備えておられる、恵みのすべてを得ることはないほどに・・。
昨日聞いた言葉は、成長の中でそれを成し遂げさせて、今日には相応しくなくなるからである。

 

捧げる感謝にも色々な感謝があり、主に献げる感謝は世の感謝とは違って、みこころが成る喜びから出た感謝であり、聖霊の臨在から溢れ出る感謝である。最上の感謝は、

 

パウロとシラスが鞭の痛みのうちに、牢で賛美した感謝であり、使徒たちがキリストの弟子ゆえに、辱めの鞭を受けて喜んだ感謝もある。それらは命を捧げるまでの感謝である。

 

キリスト者が絶え間なく捧げる感謝は、キリストの十字架の感謝である。それは、いかなる理不尽や嘆きをも呑み込んで、主に在る者に、どんな時も喜びを満たす力の源である。

 

イエスのもとで目覚めていよう。そうすれば私たちの罪は眠りにつく
彼の悲しみは私を喜びで満たす。
私の死を彼のたましいの苦難があがない、彼の死の悲しみは私を喜びで満たす。
彼の誉ある受難は、どれほど苦しくとも甘美なるものなのだ。(マタイ受難曲より)


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コメント一覧

ムベ
てちゃんさん、励ましてくださって感謝いたします。今頃になってお礼をいうのもなんですが・・気付かなくて申し訳ありませんでした。
導きの主に心から感謝して御名をあがめます。
てっちゃん
ムベさんのみことばの解き明かしは、特別ですよ。こんなに深く聖書を読まれてるのは見たことがありません。いつもありがとうございます。
ムベ
てっちゃんさん 「アーメン」を感謝致します。
分かって下さる方があると知る時とても励まされます。
空を打つように感じることもあるからです。
てっちゃん
みこころが成る喜びから出た感謝であり、聖霊の臨在から溢れ出る感謝である ←心からアーメンです。 
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