石ころ

神の愛とヨブの愛

 

 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

 

自分の十字架を負ってイエスさまに従って行く時、みことばに従順することを一番にするためには、愛する家族を神の御手に委ねることが求められる。神に信頼するなら喜んでお任せするだろう。

 

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。(マタイ10:38~39)

 

自分のいのちの中には、自分の家族や自分の計画など生き甲斐が含まれている。それは人の愛しているものを指している。自分の愛するものを神の御手に委ねることである。

 

それは神を経験している者には喜んで出来ることである。自分で握っているものはすべて時と共に廃れて行くが、永遠を見通す神の愛に委ねるなら、最善となることを知っているからである。
また、私を愛する神は、彼らをも愛する神であり、誰の上にもすべての権利を持っておられるお方でもあるから。

 

 宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ1:5)

 

ヨブの子どもたちは立派な大人であり裕福でもあった。彼らはヨブの信仰を見て育ったもので神を知っている。ヨブが神と子供たちの間に立って、子供たちを神から守る必要はなかった。それは、神ご自身が彼らに関わる権利を奪うことである。

 

ヨブがなすべきことは、自分の信仰を完成することであった。それは神に信頼して、愛するものをすべて御前に置くことである。
なぜなら、彼はそうするに十分な神の愛を味わっていたからである。

 

ヨブが子供たちを失い財産を失った時、神はヨブには何も守れないことを教えられた。
神はすべての子供たちに関わって、試練や祝福の交わりの中でご自身を知らせ、滅びることのないいのちを得させようとされる。ヨブに対してそうあるように。

 

私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ。(ヨブ3:25)

 

この言葉は彼の信仰の欠けを現わしている。あふれるほどに愛されていながら、彼の心には自分の愛するものを奪われるのではないかと、神の愛を疑う心があったのだ。
「あなたの信じたとおりになるように」というみことばは、昔も今も同じである。

 

神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。(ヨブ9:32~33)

 

ヨブが試練の中で求めて続けたのは、愛の仲裁者イエスである。此処にヨブが神に選ばれている理由がある。

 

今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。
私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。(ヨブ16:19~21)

 

神に選ばれた者はキリストを求めて叫ぶことを知っている。神が置いて下さった愛の弁護者を求めることを知っているのだ。

 

キリストの贖いは世の初めに定められたことであり、それは時系列にはなく、神は時を遡って贖う権利を持っておられ、その中でへブルの偉人たちも、ほめらめられその信仰が完全と認められているのである。

 

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル11:1~2)

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。(へブル11:11)

 

アブラハムもサラも年老いて子が与えられることを告げられた時、神のことばを笑った者である。信仰をほめられる正しい人とは、神がそう認められたことによるのだ。

 

それは昔も今も同じであり、キリストの贖いを受けて救われた者は誰であれ、完全に聖であり義なのである。
それは信仰によることなので、本人がキリストの贖いを疑わなければであるが・・。

 

神が義としてくださった者は、サタンに罪さだめされる者ではない。神が正しいといわれたならそれは完全であり、神が罪とされるなら罪人なのである。それは人やサタンが定めることではない。神の御子キリストがあがなわれたことだからである。
罪も失敗もない人間はいない、それはヨブも同じである。罪の無いお方、失敗の無いお方は神だけである。

 

後にヨブは倍の祝福と優れた子供たちを得た。しかしこのことは、今の私たちには興味のないことである。
何を得ても地上のものは過ぎ去るものであり、主がすべての必要を備えてくださる経験によってすでに満ち足りている。

 

「天の御国は近づいた」と聞いたみことばによって、天あるすべての宝を持っていることを知っており、子供たちが今信じていても居なくても主に彼らを託す信仰によって、彼らもまた天の恵みを得る望みにある者であって、ヨブのどの子供たちよりも望みがあるのだ。

 

私にはヨブ記は「わたしを知れ」と時間をかけて語りかける神と、弱さと欠けの中で懸命に神を探り求めるヨブの愛の物語。サタンなんざ幕を開けるだけの端役に過ぎないと思う。


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