石ころ

何を求めているのですか(ヨハネ1章)




 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(ヨハネ1:35~37)

バプテスマのヨハネの弟子は、「見よ。神の小羊」という言葉によって、イエスさまを見て付いて行った。彼らはヨハネの弟子として、師の言葉を真っ直ぐに受け取ったからイエスさまに行った。
人に付いて行くのではなく、語られることばに行くことはキリスト者として正しいことである。

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。
「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。
そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。(ヨハネ1:38~39)


「何を・・」という問い対して、「どこに・・」という問いで返したことは、すれ違っているように見えるけれど、彼らの言葉はイエスさまには届いたのだ。彼らは求めている方と一緒に居るようになった。
彼らは「求めた方」によって、思った事もない神の栄光を見るようになるのだ。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)

 イエスさまに出会うと、我を忘れてみことばを語るようになる。「神の言葉を語るに相応しい者」だから語るのではない、その考えは恐ろしい事である。
イエスさまは、罪の病いに悩む人のために来てくださった医者である。癒された者は、その恵みに心震えて、聴いたみことばを語り出してしまうのである。

パウロは素晴らしい経歴を塵芥と捨てて、罪人のかしらと自称しながら、みことばを世界に伝えた。彼は、教会を迫害した者であることを覚えていたが、イエスさまに出会って目から鱗が落ちたとき、180度向きを変えて福音を語るようになった。

その福音を聞いた人がイエスさまに出会うのは、信用できる正しい人が語ったことによるのではない。始めに神に選ばれたことに拠るのである。
みことばに感動して語る時、主の喜びとなり選びの人に出会わせてくださるのだ。すべてに先立つ方は主である。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)

しかし福音を語る者は、サマリヤの人たちの言ったこの言葉を聞きたいと、心から待ち焦がれているのである。

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