石ころ

私を占めるもの




 世の中思うようになどならない。自分自身でさえもどうにもならないのである。
愛の無さや思いやりの足り無さなどが事細かに後悔という形で思い起こされ、じわじわと責められたり苦しめられることがある。それは、歳を取って暇があればなおさらである。

しかし、ある時気付かされた。それらは不信仰に根ざした敵の火矢であることに・・。
後悔、心配、疑い、苛立ち、否定・・ネガティブな思いが心を占める時、その一つひとつを祈りによって主に持って行くなら、それらはご真実な主に拠って救いの実を結ぶものに変わるのだ。それは祈りのチャンスでもあった。

ある時は十字架の赦しを感謝する時となり、ある時は執り成し祝福を祈る時であり、また信仰告白によって希望を改めて確認することになる。
そうして、「あなたがたに平安があるように」よみがえりのイエスさまのご命令がこの身に成就する。

 そのことに気付いて、信仰によって十字架の胸当てを付け、御霊によるみことばの剣を持って祈るようになったら火矢はぐんと減ってしまった。それでも、祈りの課題は幾らでもあるから大丈夫。
祈りによってキリストの広さ、長さ、高さ、深さを知ることにより、私の内に聖霊の占める場はどんどん広がってゆく。祈りに繋がることはすべて良しだ。


また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。(エペソ3:19~21)口語訳

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