石ころ

光の中で生きるために(創世記20章)

 

アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」(2~3)

 

神から直接イサクの誕生を知らされていながら、失敗を繰り変えしたアブラハムにはがっかりさせられる。
しかし逆に、このアブラハムを主が選ばれていることによって、弱さや失敗が絶えない私たちも、みこころを成すことに絶望しなくても良いと気付くのだ。

 

信仰の父と呼ばれるアブラハムの不信仰が記されているのは、神による完全があることを知るためである。

此処に私たちの望みがあり、また、みこころを行うための一歩を踏み出さない不信仰について、言い逃れができない根拠がある。

 

また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはなぜ、こんなことをしたのか。」
アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。
また、本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。(10~12)

 

腹違いの妹が妻になっていることは誇ることではないし、アブラハムの言い訳はみっともない。神を知る者の言い訳は恥ずかしい。彼と共に居るのは彼の妻としてである。

 

しかし、神は彼の弱さを完全に覆って、サラから生まれるイサクの誕生を守られた。私たちの信仰を守ってくださるのは主である。

今はうちにおられるキリストの信仰によって守られ、聖霊によって主に信頼する者にみこころを行わせてくださる。

 

アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、
言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」
また、サラに言った。「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」(14~16)新共同訳

 

神は失敗からの回復を与えられる時、名誉をも回復させて恥から守ってくださる。それは言い訳の中で生きる者ではなく、与えられた光の中で存分にみこころを生きるためである。

 

聖書には使徒の失敗もあからさまに書かれてある。しかし、失敗のゆえに死んだのはユダだけである。「滅びの子が滅びただけ」とイエスが言われた通りである。

ユダが滅びたのは、イエスの憐みが無かったからではなく、自分自身を滅びにさだめて死んだからである。

 

イエスを否んで失敗をしたペテロも、主の右の座を願って失敗をしたヨハネも、イエスを待って失敗を覆われ、新しくされた光の中を堂々と歩んでみこころを完成した。すべては主にたまわったことである。


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