私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、(Ⅱコリント3:18.4:1)
「私たちはみな」とある。キリストを信じることは聖霊の働きによることであり、「みな」その信仰によって、キリストの御姿に変えられて行く望みに在る。
みことばの約束のゆえに「落胆することなく」(新改訳2017)、世の評価には拠らず、見える所にもよらず、みことばの約束の中に生きることによる。
恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(Ⅱコリント4:2)
やり繰りや手段という混ぜ物をせずに、真実なみことばを人の「良心」という「神に渇く心」に向かって、自分自身を神の御前に置いて「時が良くても悪くても」福音を語る。
この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(Ⅱコリント4:4)
それは語る者にはよらぬこの世の神のわざである。信者であるかどうかは聖霊がご存じのことである。
ただ、信者はみことばに命を賭けるが、不信者はみことばに在る神の真実を経験することはない。世を支配しているものに同意しているからである。
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱコリント4:6~7)
永遠の救いであるキリストは、この闇のような土の器に来てくださった。そうしてみこころのままに、キリストを知ることによる神の栄光に与らせてくださるのだ。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。