石ころ

聖霊の器③(Ⅱコリント4章)

 

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(Ⅱコリント4:8~10)


キリスト者の肉体の死は、救い主イエスさまにお出会いするいのちへ出発であり、魂や心がキリストに在って新しくされる死は、この世で生きるための価値観が変えられて、世の束縛から解かれて自由を得る死である。
なので、どのような死であってもキリスト者には希望なのである。


そのようなキリスト者を誰が滅ぼすことができるだろう。私たちは色々なことで倒れることがあっても、真っ逆さまに倒れることはないと約束されている。四方八方を閉じられても天はいつも開いているからである。


その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩編37:24)

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。(Ⅱコリント4:11~12)


死はキリスト者の望みを全うし、いのちは後に続くキリスト者のために用いるものである。


すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:15~16)


この肉体は衰えても、非難や責め言葉の中ででも、キリストの似姿に作り変えるみことばを、聖霊によって聞き続ける者は、一時の休みもなく変えられ続けて、神への感謝と栄光があふれるようになる。それは主のご真実によることである。


今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4:17~18)


パウロは今の軽い患難と言っているが、それは命の危険にさらされ続ける中での言葉である。それでもこのように言うのは、彼が永遠の栄光をすでに見ているからである。
キリスト者が見るべきものは永遠である。


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