石ころ

放蕩息子のたとえ (ルカ15章)





ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい」言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。(ルカ15:11~12)

弟は湯水のように財産を使い果たしてしまって、人に頼ったが、豚の餌さえも与えられず死にそうになった。

我に返ったとき彼は、こう言った。父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」


こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15:17~20)

父が息子を取り戻すことができたのは、パンの有り余る家の息子であり、貧しさの中で飢えて死ぬ者ではないことに気づいて、悔い改めて帰って来たからである。
自分が何者であるか気づかなければ、豊かな父の息子であっても、その権利は失われるのだ。

兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」(ルカ15:28~29)


兄は、弟と同じように財産を分け与えられている。しかし彼は「子山羊一匹下さったことがない」と言った。受けた喜びもなく、用いることもない財産は、猫に小判である。彼はずっと父の側に居たのに、父の心を知らないままであった。
悔い改める必要のない九十九匹が、主の喜びなのではなく、主の豊かさに気づいて、共に味わうことが主の喜びとなるのである。

人が生きることは 、造り主である神さまの財産である命を用いることである。神さまが愛しておられる者が、それに相応しくない扱いの中で、虐められ飢えて滅びるようなことがあってはならない。
私たちが「我に返って」御許に来る日、神さまは御子の血潮に罪を洗って、新しいいのちという財産をもって、喜び迎えてくださるからである。

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